2005年9月2日金曜日

無題

 その日、僕は違う道を選ぶことにした。何てことはない、ただの気紛れだ。
 電車を一つ前の駅で降りて、見慣れぬロータリーから線路に沿って、歩く。傍らを電車が、光を内包した塊が、物凄い風を撒き散らしながら爆走していく。僕は思わず呟いた。
「寒いね」
 散歩する母親が子供に語りかけるような、優しい口調だったと思う。けれど僕の隣には、もちろん誰もいない。遠くで君が闇に紛れながら手を振ったような気がして、僕は瞼を伏せ微笑んだ。焦るなよ。
 閑散とした道を抜けると、やがてビル街に出た。
 もう夜中も近いとなればビルの明かりは殆どなくなっていたのだが、鏡にも似たいくつものガラスの塔は互いの光を反射し合い、結果としてうっすらとその存在を際立たせていた。見上げるビルにはまだ新月になりきれていない月が映える、うっすらと。
 君は踊りだす。くるくると両手を広げて、ただっ広い道路の真ん中で回りだす。白いダッフルコートの裾が遠心力で目一杯広がり、タイトスカートが苦しそうにしていた。子供みたいにはしゃぐ君が、好きだ。僕は君に近付き、僕の接近に気付かぬ君はあっけなくキスされてしまう。驚いたように目をぱちくりさせた君は、やがてくすりと笑って僕の腕の中に収まる。君のうなじに、君の髪に、耳に、僕は唇を押し当てる。
 ぼとり、という音を聞いた。ひき肉の塊をボウルの中に落としたときのような音だ。
「そうだ、帰ったらハンバーグにしようよ」
 眠たげな君は消え入るような声でそう囁いた。
 ぼとり。ぼとり。ぼとり。
 ビルの屋上からそれは落ちてくる。拳三つ分ほどの黒いそれは、やがて人の形を成し立ち上がる。子供、大人、老人、果てにはビッグフットのような巨人まで。一様にどす黒いそれらは僕らを取り囲む。取り囲んで、僕らをじいっと見ている。けれど一定範囲内には決して入ってこないのだ。
 君はもういない。腕の中を空風が吹き抜け、遠くの線路で光を内包した塊が音もなく爆走していく。
 両手には白いダッフルコート。鼻を埋めてシャンプーの、君の残り香を確かめると、僕は白いダッフルコートを着た。僕よりも一回りも体が小さかった君のコートは何とか着ることができた。さっきまで着ていたジャケットは出来損ないの人形どもにくれてやる。
 人形どもの向こうの、線路の前で君は手を振る。こっちこっち、早く帰ろうよ、と手を振る。コートを僕に取られた君は、ノースリーブの腕を夜風に惜しげもなく晒すものだから、仕舞いにはくしゃみをして鼻を啜った。
 僕は君に手を振り返し、君のところへ行く。




 推敲ナシ原文ママ。これ以上の作業は、たぶんやらないと思う。


0 件のコメント:

コメントを投稿