2007年9月25日火曜日

捩レ飴細工

「捩レ飴細工」

 レ点に見られるように、レには反転の意があり、尖端にて象徴される。反転とは、二項対立概念の一端から対極へ瞬時に移項することではなく、回転し巡ることである。我々の知覚では瞬間的に見えることもあるが、過程は省略はされども決して消却はされない。と、爺様は呟き亡くなった。幼かった私には爺様の言葉の意味はわからなかったが、それとなくは感じられた。以来輪郭のない概念が四六時中頭の中に満ち溢れたが、夢の中においてのみ概念に触れられるのだった。
 夢の中では私は岬の先端にある城を目指している。城といっても既に城の原型を留めておらず、ただひたすらに捩れ水飴のように伸びていた。爺様の別の言葉を思い出す。変化は反転や回転を内包する。事物の変化の完了に要する時間の長短に関わらず、その過程は必ず連続しているのだよ。瞬間的変化の瞬間に圧縮された過程には私の知らないことがまだ眠っている。
 回転とは世界の根幹を為す原理である。
 捩れた城の中心は超過の摩擦熱で既に融解し、真白に燃えていた。原初の太陽である。その核に何故回転するのか問うたが、彼は黙して答えない。ねえ神様。その手で飴細工を創るのか。既に捩れつつあるものを。




 タイトル競作「捩レ飴細工」出品ー。○:4、△:1、×:2、という具合。自分が発案したタイトルに作品が集ると何だか嬉しい。


2007年9月17日月曜日

うんざりするくらい大きなもの

「うんざりするくらい大きなもの」

 それはうんざりするくらい大きなものだった、とうんざりするくらい優しい声で言うのでつい手を止めて聞き入ってしまった。

 何にもないところにそれはあって、両手を目一杯広げても幅の十分の一にもならない。薄茶色と薄灰色のしま模様が右斜めに入っていて、その幅は握りこぶし一つ分。ぐっと上を見上げてもてっぺんなんかまるで見えなくて、空のどこかですうっと線が消えていた。
 とりあえず周りを歩いてみた。
 右手でそれを触りながら歩くとしま模様がぐるぐる動いて、なんとなく床屋を思い出した。それは完全な円形だった。何周歩いたかわからなくなった。
 手触りは固くも柔らかくもなくて、冷たくも温かくもない。ざらざらでもつるつるでもない。力を込めて押してみたら、なんとなくだけど、へこんだ気がした。手を離したら元に戻った気もした。
 結局わたしにはそれが何なのかさっぱりわからなかった。だけど背もたれにはちょうどいいと思ったから、そこに座って本を読むことにした。しかし来る途中で半分くらい読んでしまっていたし、新しい本も持っていなかった。読み終わってしまったらどうしようか迷ったけれど、それは読み終わってから考えればいいことだと思った。
 しおりを傍らに置いて、それに背もたれて、じっくりと本を読んでいたら、真反対に誰かが来て背もたれた。荷物を置く音や、ふう、と息をつく音が聞こえたから。
 何にもないところにそれがあって、あとわたしともう一人誰かがいるのはとても自然なことに思えた。そよ風なんて吹かないし、太陽も星もなければ草も土も何もないところだけれど、それとわたしと誰かがいたって別にいいと思った。
 わたしが本の残り数ページを読んでいるとき、反対側で彼(誰かのことだ、もしかしたら彼女かもしれない)はたぶん弁当を食べていた。プラスティックのフォークが弁当箱の底に当たる音がしたから。
 本を読み終わるのと同時に彼も弁当を食べ終わり、それからしばらく二人でぼうっとしていた。上を見上げると相変わらずそれはうんざりするくらい大きくて、てっぺんなんかまるで見えなくて、空のどこかですうっと線が消えていた。薄茶色と薄灰色のしま模様があって、その幅は握りこぶし一つ分。手触りは固くも柔らかくもなくて、冷たくも温かくもない。ざらざらでもつるつるでもない。ぽかんと口を空けて手足を投げ出して、これからどうしようかと考えた。家に帰ろうかもうしばらくここにいようか。何にもないここはそれなりに気に入っていたから、もうしばらくここにいようと思った。
 それから脈を千回数える間、わたしと彼はここにいて、わたしは何にもない空を見ていた。地平線なんか当然ない地続きの空を見ながら千五十まで数えて、立ち上がった。しおりは本の一番最後のページに挟んで、荷物はまとめて、それを背にして歩き始める。彼はまだいるかもしれないし、もういないかもしれないし、もともといなかったのかもしれないけれど、それは問題ではなかった。
 帰りはX駅の始発の電車に乗ってきた。売店で買ったばかりの本を何ページか読んでいるうちに眠くなって、目を醒ましたら電車はもう動いていた。まばらに立つ人たちの間から窓の外が見えて、空は絵に描いたみたいな夕焼け空だった。夕陽に近い雲は真っ赤に燃えてて、それから遠のくにつれてだんだんくすんだ色になって、そのうち紫紺の空に融けていくのがなんだか綺麗だなって思った。

 あと、これがおみやげ。と言って差し出したのは駅前のケーキ屋のレアチーズケーキだった。ぼくはここのレアチーズケーキが好きでしょうがない。

2007年9月9日日曜日

一本槍松彦の話

「一本槍松彦の話」

 竹彦や梅子と違って松彦はひどく気弱な子供だった。父親も母親も、親戚の誰もが気の強い人たちである中で、突然変異と言っても差し支えのないくらい松彦は気弱な子供だった。
 例えばアクション映画を見ているとき、弟や妹が拳を握り画面に唾と野次を飛ばす傍らで松彦は身を硬くしているのだった。とりわけ血が流れるシーンなど痛覚が表出されるときは見てもいられなくなった。そんな松彦を、竹彦は弱虫意気地無しと言ったし、未だ言葉をあまり知らない梅子も似たようなことは思っていたに違いない。
 兄弟で遊ぶとき、松彦たちはしばしばヒーローごっこをした。竹彦と梅子が、やろうやろう、と松彦にせがむのだ。もちろん松彦は二人に倒される怪獣や悪者の役なのだった。白いシャツとカーキ色のズボンから伸びる手足は細く生白く、悪役にはよほどふさわしくないのは全く問題ではなかった。
 かくして松彦は年下の二人にこっぴどくやっつけられる。殴られた所が痣になって残るのはいつものことであるが、決して見過ごされてはならない傷とは見なされない。気の強い両親は子供は怪我を作るのが当たり前だと思っていたし、何よりも兄であるというレッテルが弟や妹よりも優位にあるという認識を生んでいた。彼らには兄が弟や妹に虐げられるという構図を想像することもできないのだった。
 あるとき竹彦が松彦のシャツの裾を掴んで引っ張り倒し、梅子が松彦の脛を思い切り蹴飛ばした。すかさず竹彦は松彦にのしかかり梅子も後に続いた。決して重いわけではないが、体重のかかる場所が悪ければそれなりの苦痛にはなった。松彦が堪らず「やめて、やめろ」と叫ぶがそれは火に油を注ぐだけで、ますます竹彦と梅子は目をぎらぎらとさせた。
 明滅を繰り返す視界で振り回した膝が竹彦の鳩尾を打ったのはそのときだった。竹彦はもんどり返って蹲り、梅子は何が起こったのかわからないという風で松彦と竹彦を見ていた。松彦は上半身を起こした。小さく丸くなる弟の背中を荒い息で睨むような呆然と眺めるような、ぴくぴくと痙攣を繰り返す姿は泣いているのだろうかと思ったがそれには不思議と罪悪感は湧かず代わりにふつふつと湧き上がるどろどろした衝動、一体それをどこから吐き出せばいいのかどうして気弱な松彦にわかろうものか。立ち上がって竹彦のわき腹を蹴り上げて、仰向けになった竹彦の顔を、鼻を、その足で踏みにじって、そのとき竹彦はどんな顔をするだろう、傍らで見ている梅子はどうするだろう、泣くだろうか。竹彦は死んでしまうだろうか。しかし松彦の足は動かない。
 そのうち梅子がおかあさあん、と母親を呼びに行ってしまった。しかし子供の喧嘩に一々口を挟むような人ではない。竹彦はやがておもむろに立ち上がり、二つ咳き込み部屋から出て行ってしまった。松彦は上半身を起こしたままの姿勢で、夕陽に踊る埃をぼうっと眺めていた。どれくらい時間が経ったか忘れた頃に、梅子がごはんだよう、と襖の間から顔を半分のぞかせた。
 その後もヒーローごっこは繰り返され、松彦は相も変わらず悪役で、そしてこっぴどくやっつけられた。そのたびに繰り返される残酷な妄想は、とてもぞくぞくした。