2007年9月9日日曜日

一本槍松彦の話

「一本槍松彦の話」

 竹彦や梅子と違って松彦はひどく気弱な子供だった。父親も母親も、親戚の誰もが気の強い人たちである中で、突然変異と言っても差し支えのないくらい松彦は気弱な子供だった。
 例えばアクション映画を見ているとき、弟や妹が拳を握り画面に唾と野次を飛ばす傍らで松彦は身を硬くしているのだった。とりわけ血が流れるシーンなど痛覚が表出されるときは見てもいられなくなった。そんな松彦を、竹彦は弱虫意気地無しと言ったし、未だ言葉をあまり知らない梅子も似たようなことは思っていたに違いない。
 兄弟で遊ぶとき、松彦たちはしばしばヒーローごっこをした。竹彦と梅子が、やろうやろう、と松彦にせがむのだ。もちろん松彦は二人に倒される怪獣や悪者の役なのだった。白いシャツとカーキ色のズボンから伸びる手足は細く生白く、悪役にはよほどふさわしくないのは全く問題ではなかった。
 かくして松彦は年下の二人にこっぴどくやっつけられる。殴られた所が痣になって残るのはいつものことであるが、決して見過ごされてはならない傷とは見なされない。気の強い両親は子供は怪我を作るのが当たり前だと思っていたし、何よりも兄であるというレッテルが弟や妹よりも優位にあるという認識を生んでいた。彼らには兄が弟や妹に虐げられるという構図を想像することもできないのだった。
 あるとき竹彦が松彦のシャツの裾を掴んで引っ張り倒し、梅子が松彦の脛を思い切り蹴飛ばした。すかさず竹彦は松彦にのしかかり梅子も後に続いた。決して重いわけではないが、体重のかかる場所が悪ければそれなりの苦痛にはなった。松彦が堪らず「やめて、やめろ」と叫ぶがそれは火に油を注ぐだけで、ますます竹彦と梅子は目をぎらぎらとさせた。
 明滅を繰り返す視界で振り回した膝が竹彦の鳩尾を打ったのはそのときだった。竹彦はもんどり返って蹲り、梅子は何が起こったのかわからないという風で松彦と竹彦を見ていた。松彦は上半身を起こした。小さく丸くなる弟の背中を荒い息で睨むような呆然と眺めるような、ぴくぴくと痙攣を繰り返す姿は泣いているのだろうかと思ったがそれには不思議と罪悪感は湧かず代わりにふつふつと湧き上がるどろどろした衝動、一体それをどこから吐き出せばいいのかどうして気弱な松彦にわかろうものか。立ち上がって竹彦のわき腹を蹴り上げて、仰向けになった竹彦の顔を、鼻を、その足で踏みにじって、そのとき竹彦はどんな顔をするだろう、傍らで見ている梅子はどうするだろう、泣くだろうか。竹彦は死んでしまうだろうか。しかし松彦の足は動かない。
 そのうち梅子がおかあさあん、と母親を呼びに行ってしまった。しかし子供の喧嘩に一々口を挟むような人ではない。竹彦はやがておもむろに立ち上がり、二つ咳き込み部屋から出て行ってしまった。松彦は上半身を起こしたままの姿勢で、夕陽に踊る埃をぼうっと眺めていた。どれくらい時間が経ったか忘れた頃に、梅子がごはんだよう、と襖の間から顔を半分のぞかせた。
 その後もヒーローごっこは繰り返され、松彦は相も変わらず悪役で、そしてこっぴどくやっつけられた。そのたびに繰り返される残酷な妄想は、とてもぞくぞくした。

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