2007年5月29日火曜日

未来のある日

「未来のある日」

 いつか終わることすら忘れていたくらい永い夢から醒めると、僕はひとりぼっちだった。人類はとうの昔に絶え、地球は何千年もの荒廃の時代を経て緑に覆われ、文明の名残は微塵もない。いや、初めからなかったのかもしれない。
 僕は時を数えるのも忘れて地表を巡り、世界の天辺に至る。星はしばらく見ないうちに随分と配置が変わっていた。見下ろす景色は一面緑、緑、緑、生命の寝息のリズムが聞こえる。ほら、夜が明ける。



2007年5月27日日曜日

もらったもの

「もらったもの」

 家に帰ると母がテーブルいっぱいに(名前はわからない)を広げてにこにこしている。
「どうしたの、それ」
「裏のおじいちゃんにもらったの」
「……なにこれ」
「   」
 宇宙人が使う語よりもおそらく難関な発音をするのでもう一度聞いてみるが、やはりわからない。「て」と「み」を同時に発音していたような気がする。それは輪郭が極めて曖昧で、丸いような四角のような、大きいようで実は小さく、ふわふわの中に時折ぴりぴりが混じり、食べられるようで多分食べられない。そもそも食べ物? 用途不明、材料不明、そして発音不明。原子式で表そうにも当てはまりそうな原子すら思いつかない。
「綺麗でしょ?」
 確かに。


2007年5月26日土曜日

信じますか

「信じますか」

 裏道の骨董屋にて。
 なあ、いつも気になってたんだが。なんでしょう? あの子はお宅の娘さんなのかい? いや、あれは拾いものですよ、まあ聞いてくださいって。

 紅い満月の夜、丘の原っぱに空中庭園へ続く月の階段が現れるのだという。嘘だとずっと思っていた。
 ある嵐の晩、轟く雷鳴に目を醒まし震えていると不意に音が止み、風も無く、時間が止まったのかと思い起きてみると雨は上がっていた。水を吸った葉が重く頭を垂れているのが窓から見えて、月は紅く円い。根拠は無かったが、今起きているのは世界中で私だけだ、と確信し、木靴を履いて丘へ向かう。歩調に合わせてカーディガンが揺れる。いくつもの水たまりのそれぞれが何かの物語の入り口であり、夜空の雲を映しながらも時折思い出したように揺らめいてた。冷たく澄んだ空気が体を透過する。娘は不思議と冷静だった。
 だから丘の原っぱから銀色の螺旋階段が空へ空へと伸びているのを見ても驚かない。娘は最も正しい方法で階段を踏み、果ての見えない階段を昇るのだ。地面はたちまち遠くなり、長い時間を経て空中庭園に至る。井戸から頭をひょっこり出した娘を住人たちは「お帰りなさい」と愛情を込めて迎える。なんだか懐かしい。娘は自分を姉と呼ぶ少年に手を引かれて林檎林を歩く。たわわに実る林檎を二人して頬張り他愛もない話で盛り上がり、気が付けば小屋の前に立っていた。悪い魔女はもういないんだったっけ、と娘は呟くが、なぜ自分がそんなことを言うのかわからない。しかし間違ってはいないのだ。以前は姉弟を不幸にした魔女がいて、今はいない。そういうことだ。安らいだ気持ちで扉を開けると「お帰りなさい!」男の子と女の子の幼い双子が満面の笑みで出迎える。私の子供だ、と娘が双子を抱きかかえると奥から愛しい男が現れた。胸は幸せのあまりはちきれそうで、それを噛み締めようと目を閉じ、開けるとお腹に子が宿っているのに気付く。娘たちはミルクと蜂蜜を食し、柔らかい毛布で一緒に眠る。そして娘は一人目を醒まし窓の外を見遣ると、紅い月。あれは何だったろう、何でもいいだろう、娘は再び眠りに就くが胸騒ぎに負けて再び旅立つ。未だ遠い夜明けまでには必ず帰るつもりだった。

 へえ、じゃああの子が件の娘なのかい、信じ難いけども。いいえ、あれは双子の片割れですよ。ほお。あの後、結局母親は帰らないで、家族はばらばら、この辺りをふらふらしているところを私が拾ったんです。これからどうするんだい? さあ、見ての通り全然喋らない上に結局何者かもわからない、でもお恥ずかしい話ですがね、私はあの娘の語る物語が好きなものでね、何というか物語の登場人物が本から抜け出てきたみたいで面白いんですよ。


2007年5月25日金曜日

残暑

「残暑」

 列車を一つ見送って吹いた風はまだ湿っぽく暑いが不思議と気だるくはない。空の色がまた一つとおんと澄んだような気がする。



2007年5月23日水曜日

めがね

「めがね」

 世界の正しい形を教えてくれるめがねを失って一週間が過ぎた。いびつに歪み焦点の定まらない視界に私が慣れる気配は微塵もなく、道を歩けば物や人にぶつかりその度その度泣きそうになる。何故失くしたのか、何処へ行ったのか。知らない。涙のレンズが僅かな間だけ世界の正しい形を示唆するがたちまちぼやけてしまい、一瞬の期待さえ恨む始末だった。めがねを持つ人が恨めしい。めがねがなければ世界と向き合うことすらできない人たちめ、よく聞け。私は今、真正面から向き合っているんだ。輪郭の定まらない歪んだ顔の人たちに囲まれて輪郭の定まらない歪んだ顔の男性と結婚して輪郭の定まらない歪んだ顔の子供たちに囲まれて老後を過ごすのだ。彼らは醜いと言うか哀れと言うか、好きに言わせればいい。決して正しくないかもしれないけど、世界の本当の形なんだ、これが。
 ぐしぐしと袖で鼻の下を擦る。


2007年5月22日火曜日

奇妙な花

「奇妙な花」

 その子はとても大人しく、いつもにこにこしており、どんなつまらない冗談にもコロコロと笑い、本人すら気付かないことにも良く気の付く子だった。はっと目が醒めるような美しさではないが、川辺に咲く名前も無い小さな花のような素朴さと可愛らしさがあり、僕はたちまち恋をする。雀の涙ほどしかない勇気を振り絞って話し掛け、遊びに誘い、友人に冷やかされながらも努力は実を結び、「うん、よろしくね」とはにかむ顔が狂おしいくらい愛しくてどうしたらいいかわからなくなるほどだった。初めて握った手はびっくりするくらい小さく柔らかく、いつしか唇や胸にばかり目が行くようになり自己嫌悪に陥る。それは相手にも伝わったようで、どうにも釈然としない気まずさが漂うがそれでも彼女はいつものようににこにことしてて、例えば薄暗い夜道などには彼女の方から身を寄せてきて魔性を垣間見る。ある日彼女が物思いに沈んでいるのを見て、どうしたのか訊ねると僕の親友に口説かれたのだという。嫌な予感がした。親友に事の次第を聞くと、それは事実無根だという。そのときはそれで話が済んだのだが、以後も何度か同じような話を聞き、いよいよ怪しいなと思うに至った。そこで秘かに彼女の身辺を探るが、特に不審な点は見当たらず、挙句「最近おかしいけどどうかしたの?」と心配される始末で、もう疑うのはやめようと心に誓うが完全にすっきりするわけでなく、さほど親しくない友人からも、お前やつれてないかと声を掛けられる。


2007年5月21日月曜日

除夜

「除夜」

 こたつに突っ伏し除夜の鐘を聞く。テレビから流れる音なのか近所の寺から流れる音なのか不確かであるが、鐘の音であることに間違いはなく、ひとおつ、ふたあつ……夢現に聞く。百八ある鐘の音が一列に並び鼓膜を撫ぜるのだが、そのうちの一つがひどく気弱で私はその訪れに気付かない。全てが鳴り終えた後で、まだ一つ足りないじゃあありませんか、むにゃむにゃ呟くと気弱なそれが申し訳なさそうに鼓膜に触れ、わざわざありがとう、と私は告げる。年越し蕎麦を食べ損ねた!

 

2007年5月20日日曜日

虹の翼

「虹の翼」

 彼女は昔から絵を描くのが好きで、描くものには何でも翼を生やす。人間はもちろん、犬や猫、雲、樹木、車、タンスと文字通り、何でも、なのだ。それは大人になり画家になっても変わらずで、世間では大よそ受け容れられなかったが、彼女の嗜好を理解する人がとことん賛美し結果彼女は片田舎で細々ながらも暮らせていた。
 例えば梅雨の終わりに彼女を訪ねると、彼女は昔と変わらず縁側を駆け柱の影からひょっこり顔を出す。まあ上がってよ、と言い僕に向けるシャツの背には黒の絵具で翼が描かれていて、そのシャツが背中に引っ付いているものだから歩調に合わせて翼はぴくぴくと蠢いている。
「今度、個展やるんだ」
 ちゃぶ台を挟んで茶を飲んでいると彼女が素っ気無く呟いた。彼女がいつもつまらなそうで無気力なように見えるのは常に創作のことを考えているからで、向こうの世界に心を浸しておりつまり彼女は現実を生きていない。目指すものや場所を実現できさえすればもうこの世に未練はなくて、幽霊が成仏するようにある日フッと居なくなってしまうことも有り得るから恐ろしい。事実、人生初の個展も彼女にしてみればさほど重要なことではないのだろう。そんな日がいつか来る気がするけど僕がどうこうできるわけでもないので、せめてこんな風にちょくちょく顔を出すのだ。
 ある秋晴れの日に予感は的中する。
 無人となった家のちゃぶ台に七色の翼が描かれた卵が置いてあり、以来彼女の消息は知れていない。



 最近は突然ざーざー雨が降ったり冷えたりでいやです。いやだ。でも、毛布がもふもふなのはありがたいです。

2007年5月18日金曜日

駄神

「駄神」

「神さま神さま、今年こそ僕に彼女をください」
「先着百人までしか叶えられん」
「じゃあ宝くじを」
「金運は専門外じゃ」
「何なら出来ますか?」
「日常のささやかな幸せ作りが専門、ありがちな願い事ならいくらか」
「例えば?」
「空を見て素直に『綺麗だなあ』と思える、とか」
「じゃあそれで」
「わかった」
 未練がましく五円玉を放りその場を後にする。鳥居をくぐって見上げた空は、青。時々吐息の白。


2007年5月16日水曜日

微亜熱帯

「微亜熱帯」

 地下へ続く階段を下ってドアを開けるとそこはもう大分昔に捨てられたバーで、僕らの家である。僕はすぐにドアを閉める。するとたちまちねっとりとした甘い匂いが手足に絡み付いて奥へ奥へと招き寄せる。コンクリートの床は数歩も歩かないうちに樹の根で覆われ、熱帯植物の吐く息で絶え間なく液体が滴り落ちる。熟れたマンゴーが自身の重さに負けて爆ぜていた。うっかり踏んでしまい嫌な感触が足の裏でしばらく続く。「ただいま、また踏んじゃったよ」と弟に笑う。バゲットを手渡すと弟は奥へ持って行き、その間僕は椅子に腰掛け息をつく。靴の裏には黒く汚れたマンゴーの実。目を閉じると、植物の胎動の音が聞こえるようで、弟に呼ばれて眠ってしまっていたことに気付く。湯気の立つリゾットを弟と二人で食べる。



2007年5月15日火曜日

観察する少女

「観察する少女」

「四季を通じて対象に生じた出来事は良い事であったり悪い事であったりして、いずれも対象の気性や性質に影響を与えてきたことは無視できない事柄であろう」と少女はメモに記述する。「そこに何らかの関数装置を見出すことができれば任意の結果は任意の代数によって得ることができると考える」以下はメモの抜粋である。

・対象は猫を見ると条件反射的に微笑む
 →犬ならばどうか?
    ↓
  小型犬(ただしチワワは除く)に対して好意を抱く模様(有意基準に満たないため断定はできない)
 !他の動物については如何
分析:猫を構成する要素の何が対象の嗜好に合致するのか?
仮説:丸い手足かしましま模様、実証手段は……

 トートロジーや片側検定といった語群の中に、ただの一度も「好き」という語が登場しないことに少女は気付かないし、思いつきもしない。

2007年5月14日月曜日

ロケット男爵

「ロケット男爵」

 ロケット男爵の支配する街を訪れた。
 黒いつやつやのでっぷり膨らんだ円錐形の本体に青い三本の足のついたロケットの顔と豪華絢爛な貴族の服が、ロケット男爵の特徴らしく、彼は観光の最前線で活躍をしているようだった。土産物屋はもちろん、八百屋や宿、広場に図書館までいたる所でロケット男爵が顔を黒光りさせている。
 議会が作り出したマスコットなのだと決め付けていたらあながちそういうわけでもないようで、「よその人はみんな信じちゃくれないけどね、ロケット男爵は本当にいたんだよ」「嘘じゃないよ、今から二百年くらい前の人なんだよ!」「ロケット男爵はフランスの侵攻に対して、その勇猛さで街を守った英雄なのだ」「ロケット男爵は空を飛べたのです」「この地域には『ロケット男爵が右手を挙げた』という表現が根付いています」「彼はいつも美しい女性に囲まれていたが生涯独身を貫いた」「みんなのヒーロー」「ロケットの語源は彼なのじゃ」嘘つけ。
 街の中心部から外れた住宅街の一角にロケット男爵の子孫だという一家がいるらしいので、散歩がてらに見に行ってみると驚いた、植え込みの合間からロケット顔の幼女が等身大のゴールデンレトリバーと戯れている。ちなみに夫人は普通の顔だった。
 帰国後この話を知人にしたが、もちろん誰も信じてくれない。そのうち私の記憶さえも不確かになる。




2007年5月13日日曜日

ことり

「ことり」

 ことりのいる生活に憧れて家を出た。何羽ものことりに「一緒に住んでくれませんか」と頭を下げ続けて、七十三羽目でやっと了解してくれることりに出会う。一緒に暮らすにあたっていくつか約束をした。

 一 互いの私生活に一切干渉しない
 二 食事は人間がことりの分も用意する
 三 人間はことりの安眠のため夜九時以降は騒音を起こさず、またことりも人間のために朝七時半以前に囀ることを控える
 四 知人・家族を自宅に招く場合には、事前に相手の了承を取る
 五 以上の約束事は互いが有意に破棄できるものとする

「これでいいのかい?」「ええ、十分だわ」その小さな脳味噌でどこまで覚えていられるものかと思ったけど、ことりは従順に約束を守り続け、僕もまた守り生活している。初めの頃は喧嘩するとお互い五番目の約束を持ち出すことが多かったが、一年が経つ頃にはそれもすっかりなくなっていた。



 江國香織の「ぼくの小鳥ちゃん」が頭からはーなーれーなーいー。や、良い作品です。


2007年5月12日土曜日

サンダル

「サンダル」

 夕飯の買い物から帰ると書き置きの手紙とサンダルがあった。サンダルが手の平にすっぽり収まる。不意に、アイスが溶けるなあ、なんてぼんやり思う。



 

2007年5月11日金曜日

踊る

「踊る」

 三日月形に照らされた円形ののダンスホールで、子供たちは社交ダンスを踊る。歪んだミラーボールの怪しい光とへたっぴなワルツを伴って。
 螺子巻の方向で子供たちはくるくる回る。ホールの明るい部分では互いの顔が見えるので互いに目配せしあうのだが、一度闇に足を踏み入れると、視覚も記憶も失ってしまう。次に三日月形に躍り出たときには全く別の子と抱き合っていることも珍しくない。
 長い夜を踊り明かし、朝を迎える頃には子供の数ががくんと減っていた。闇に取り残されたのだ。




2007年5月8日火曜日

延長また延長

「延長また延長」

 もうだめだ、と諦めかけると必ず内的であるか外的であるか定かではないが成功の予兆が現れる。その道を歩むのが苦しいのは試練なのか警告なのか何となくわかるようでわからなくて、またその確証が得るのは何よりも恐ろしいので敬遠してしまう。



 体力の無さを実感する。ぜえぜえ。
 ところで先日、スリーサイズを測ってみたのですよ。
 B80 W62 H85の貧乳系。

2007年5月6日日曜日

ゆらゆら

「ゆらゆら」

 誰かが、ここは空気の堆積した海だ、と言ったときから山の頂でさえも海底なのだった。言葉が泡となってぷかぷかと浮上する幻視はなんだか心地いい。
 鉄塔を昇る。
 四肢のこんがらがった男女の囁き合う愛の言葉が気泡となって海面へと上っていく。ソーダ水のようにしゅわしゅわと。その様子が面白くて高笑いする。あっはっは、ととびっきり大きな泡がぼくの口から生まれ、声が途切れるまで膨れ続けた。この空の彼方には溢れた言葉が集る場所があるに違いない。飛べるかもしれないと思ったのはそのときで、言葉の空を航行する術を思考した。そこでは誰もが言葉を吸い、肺を通じて酸素を交換するように言葉を交換し、吐き出し、或いは血に乗せて全身に巡らせるのだ。くらくらして、どきどきする。なんてステキな世界なんだろう、と胸を鷲掴みして見上げる月はとても遠かった。風は水流のように押し寄せ、ぼくの心許ない足もとを無遠慮に揺るがす。






2007年5月5日土曜日

這い回る蝶々

「這い回る蝶々」

 永久に眠れる女郎たちの肩に彫られた蝶々が好い人を求めて皮膚を羽ばたいている。


 タイトル競作 ×:1

 選評を見ていて思ったこと。這い回るってそんなアグレッシブなイメージがあったのかしらん、とか思ったり。僕はむしろ空とか上の方と途方も無い距離があるようなイメージだったりする。
 ところで虚数昆虫、いいよね。もうね……むふ…………ぞなもし……はぐ……ぎゅっ……みたいな、やあん……たまらんのよ…………こう、もう。←みたいな感じ(気持ち悪い)。惚れ込みすぎて他作品が読めませんでした。てへ。



 ヒダリマキさんが翅を毟った蝶をミギマキさんは膝を抱えて見ている。ヒダリマキさんは、毟った翅を陽に透かしてみたり水に浸してみたり、或いは宙に放ったかと思えば絹でも触れるかのように親指と人差し指で摘み、ふー、と息を吹きかけきゃっきゃと手を叩いて喜び、挙句翅をぐしゃぐしゃにしてしまう。手の平にこびりついた残骸をはたき落とし、ヒダリマキさんはどこかへ行ってしまう。その間ミギマキさんはずっと観察を続けていた。蝶には決して触れずただ視線だけを注ぐ。が、やがて立ち上がり、踵でぐりぐりと蝶を擂り潰すと、ヒダリマキさんを追って駆けていった。そしてミギマキさんは、花畑の真ん中で蝶を捕まえようと跳ね回るヒダリマキさんを押し倒し左肩に齧り付く。二人はくねくねと体勢を変えながらきゃっきゃと笑い合う。

性の起源

「性の起源」

 暗くなるとたちまち夕暮れの匂いが立ち込める。茜色の空を見て胸が苦しくなるのは初恋の人を思い出すからで、窓辺で私に背を向けて立っていた後ろ姿を想像する。骨ばった手の平が緩く握られていてそのラインを目で撫でていると彼が振り返り、母の名を呼んだ。そして私はひどく愛しげに父の名で応える。さっきよりも濃くなった夕闇の中で私たちはじっと見つめ合っている。




2007年5月3日木曜日

私がダイヤモンドだ

「私がダイヤモンドだ」

 ジャングルジムの丘に立つ勇者が、砂場の谷を隔てて滑り台の山のダークプリンスと対峙する。じりじりと灼熱の太陽が地表に迫り、太陽を横切る鳥も雲もない。おもむろに、勇者が宣言する。
「私がダイヤモンドだ」
 これは、実は先日、勇者が両親とテレビの二時間ドラマを見ていたときに主人公の少年が銃を両手に構えて言ったセリフである。宝石店の店主が両手を挙げて助けを請いながらもその瞳は憎しみで煮えたぎっていて、また主人公も譲る気など全くなく、長時間の睨み合いの末に彼はそう言ったのだった。そして、少年は発砲し、決して幸せではないがとてもかっこいいエンディングを迎えた。つまり、この言葉はそういう言葉なのだ。
 賽は投げられた。少年は丘を下り谷を越え、斜面を駆け上り逃げる仇を追跡する。仇は仇で、なんとなくかっこいい、と思っていることなど勇者は知る由もない。




 腰が痛いのだぜ。
 色々考え事をしていたらすっかり寝るのが遅くなってしまったのだぜ。

2007年5月2日水曜日

春の忍者

「春の忍者」

 ドレスの袖を通すとき姫君がぽつりと「花畑が見たい」と呟くを聞きつけ、忍者は早速行動を開始する。姫君がドレスの皺を伸ばして顔を上げると、そこは既に花畑の中。うららかな陽気と甘いそよ風が溢れ、傍らを流れる清らかな小川には一本の不自然な竹の棒が立っている。




2007年5月1日火曜日

お城でゆでたまご

「お城でゆでたまご」

 白い森の胎内で密やかに息づく古城に至る道は無い。それは唐突に出現し、誰かの記憶の断片であるが如く輪郭は枝葉に隠され曖昧となる。崩れた城門を越え中に入ればそこかしこに跋扈する白い草と白い花、彼方で虚ろな口を空ける玄関がある。足もとはふわふわと頼りなく、空は白い森で覆われているためぼろぼろの白天が解れて時折青天が覗いているように見える。しかし白天である限りはそこは真冬の雪原でありそこは雪が降ることさえ忘れられてしまった時の彼方でもあった。城の中へ踏み入ると、小柄な老婆が「旦那様、お帰りなさいませ」と出迎える。後に付いて行く途中、例えば廊下の隅の暗がりで何かが蠢く気配を感じるが老婆は気にする風でもなく私を一室に通した。気が狂ったかのような白い部屋に眩暈を覚えるが老婆は私を部屋に押し込み閉じ込める。円形の部屋の中心には小さな円卓が置かれ、丁寧に殻の剥かれたゆでたまごがあった。ゆでたまごに歯を立てる。まず最初に私が失うのは思考なのだろうな、と苦笑する。

楽園のアンテナ

「楽園のアンテナ」

 楽園を求めて旅する僕らは、世間ではサーカス団として認知されているようだ。
 満月の夜は特に盛り上がる。大男の吹く炎は天井ぎりぎりまで燃え盛り、座長が隣で「少しは加減しろ!」なんて騒ぐが決して本気ではなく、次の出番を待つ新入りの子が僕らの後ろでリハーサルを繰り返す。いつもの光景だった。
 空中ブランコの大演技が終わりアンコールの声が止まぬ中、座長は舞台の真ん中に立ち、演説を始める。
「皆様、今宵はお楽しみいただけたでしょうか、いいや返事は要りませぬ、我々には皆様の興奮を敏感に感じ取るアンテナがあるのですから。ところで皆様、我々は決してただのサーカス団ではなく、実は楽園を探す徒なのでございます。思えば我々が旅立ったのはもう何代も昔のことですが、未だに辿り着く気配がありませぬ。果たして本当に楽園などあるのでしょうか? あるのです。皆様、どうぞこちらをご覧下さい」
 松明が宙を照らし僕の姿が露になると、眼下で蠢く観客の視線が集中するのがわかった。僕は顎を引く。じっと目を瞑り深く息を吸い込み、網膜に映える星空に楽園の在り処を尋ねた。彼らは決して直接的には教えてくれないが、しかしいくつものメタファーを与えてくれる。今日は観客の小さな男の子の、慌てて隠したくしゃみだった。僕は細く張られた縄の上へと歩みだす。観客のどよめきの中から件の男の子の視線を探り、そちらへと向かう。梯子を下り、モーセよろしく開けた観客の中から男の子を見つけ出した。
「今朝、君は夢を見たはずだ。とても、そう、とても幸せな夢だ。教えてくれないか?」
「……滝。それから花畑……」
 それだけ聞くと僕はにっこりと微笑み、男の子の頭を撫でてやる。そして観客をぐるりと見渡し、
「僕らは滝と花畑のあるところへ向かいます!」
 そしてライトは舞台を照らす。




 晴れてかぜっぴきです。