2008年6月27日金曜日

ひつじ雲

「ひつじ雲」

 お手洗いのパパを待つうちにアイスが溶けて、べしゃって地面に落ちた。パパは泣きじゃくるあたしに「新しいの買って帰ろう」と言って頭を撫でた。あたしのパパは世界一だ。
 遊園地の帰り道、あたしとパパは手をつないで他愛のない話をする。また行こうねって。そう言うとパパは笑うけど、傍目には悲しそうに見えてて、でもそんなことないって知ってる。前に長く伸びた影や夕暮れの永遠みたいな時間がパパをそんな風に見せるのだ。あたしとパパをつなぐ手が、歩くリズムでぶらぶらと揺れる、そんな気怠さがいい。
 パパの無口さは男らしくて素敵だ。歩きながらあたしが話すのは、例えば友達が面白いって言ってたアトラクションがそうでもなかったことや、パレードが子供っぽくて冷めたこと(でも楽しかった、って言う。本当のことだから)。パパはあたしの話に相槌を打ち微笑んでくれる。夕陽はいつまでも沈まなくて、路地も果てしなく続いてて、でも永遠じゃないからあたしは時間を惜しんで夢中で話をする。
 だからあたしは影が増えたことに気付かなかった。パパを挟んだ反対側に、あたしより大きくてパパより小さい影が一つ。ショックだったのは、その影がパパと手をつないでいたこと。
 パパを見上げると、パパは隣の誰かと話をしていた。パパの向こうにピンク色のフレアスカートの裾がちらつく。パパの薬指の銀の指輪が、夕陽に反射して目ざとくぎらぎら光っていた。ねえパパ! と声を上げて腕を引っ張ってもパパはこちらを振り向かない。それどころかパパは、信じられないくらい明るい声で笑ったり拗ねたような声を出したりと、あたしの嫌いな軟弱な男に成り下がってて、もう腹が煮え繰り返って、パパッ、と怒鳴る。するとパパは悲しそうな顔でこちらを見てあたしの手を振りほどく。そして女と、この愛娘のあたしを置いて歩いていってしまう。走ってもあたしはパパに追いつけない。やがてパパと女は地平線の彼方にすとんと落ちてしまった。同時に日が暮れる。
 取り残されたあたしは涙と鼻水で顔中べとべとになる。さっきパパが買ってくれたアイスはすっかり溶けていた。あたしの後ろには溶けたアイスが点々と続いていた。何がいけなかったのだろう? 例えば、アイスさえ溶けなければパパはいってしまわなかったかもしれない。そんな非論理的な考えがだんだんわたしの中で絶対になって、ああ、私は明日もこの馬鹿げた妄想を再現するのだろうなと絶望する。

かつて一度は人間だったもの

「かつて一度は人間だったもの」

 帰路へ着く人々の流れに逆らい歩いている。彼らは顔中に疲労を滲ませているのにどこか幸せそうで、私と肩がぶつかっても私の方がよろめくばかりだ。彼らは黙々と家族の待つ家を目指す。それは幼い子が笑顔で出迎えてくれる家だろうか、新妻がかいがいしく世話を焼いてくれる家だろうか、年老いた父母が肩を並べてテレビを眺めている背中が見える家かもしれないし、もしかしたら一人暮らしで扉を開けても暗がりがあるだけの家かもしれない。それなら近親感が湧く、少しだけ。彼らは一様にぼんやりとした眼差しで前を向いていたり、視線を足もとに落としていたり、携帯電話を眺めたりしている。しかし誰も空を見ようとしない。日の長い夏の夜の空には薄らぼんやりと紺色の濃淡が広がっていて、その裾野を街灯や建物の灯りが仄かに黄色く染め上げている。中空にぽつんと金星が瞬く。私も帰ろう、家に帰ろう。と、誰かと肩がぶつかった。よろめく。それでも私は歩かなければならないので、足を摺り前へ前へと進む。また誰かとぶつかる。転ぶ。それでも私は。べちゃり、べちゃり、と顎と腰で地を這い進む。腕などとうに失くした。人の足の隙間から空を睨み上げる。遠い。




 心臓タイトル競作 ○:2、△:4、×:0
 という具合でした。

 評の有無もそうなのだけども、コメントを貰えるのが嬉しい。「(拙作を読んで、)こういう風に思ったのね」ってニヤニヤするのが楽しい。というわけでもう少しかっつり選評したいなあ、と。

 雪雪さんから頂いた評の中に、こんな話がありまして。
「うまい、と思わされるのは、技巧よりも本気だからだろう。アイディアに応じて、あえてこういうシチュを選びました、ということでなく、思わず書いてしまうのだろう。だから強い。しかしこの人はこういうものは、いくらでも書けてしまうんだろうな、というゆるい脱力もある。
たとえば500文字の作品が書かれるとき、たとえ480文字まではありがちであっても、その480文字だけが生むことが出来る空前の20文字が、含まれていてほしいと思う。そういう高望みが引き起こされるだけの、力があった。作品に、というよりは作者に。」

 前に一度、“最後の最後でそれまで構築してきた世界を派手にひっくり返す”ことを目指したことがありまして。それが雪雪さんの言う「空前の20文字」に相当するかはわからないけども、一応載せてみる→ひつじ雲

2008年6月6日金曜日

交信

「交信」

 空の高いところから赤い糸が垂れてきて、私の目の前でふらふらと揺れだした。運命の赤い糸かしらん、なんて考えながら引っ張ってみると間もなく糸の先から反応がある。
 く、くいくい、くくくい(お返事ありがとう)
 くいくくい、くくーっい(どういたしまして)
 くくいくくっくい、くーくいくい(今度星を見に行きませんか?)
 さすがにこれは唐突だろう。どうお断り申し上げようか考えていると、
��やっぱり突然過ぎましたよね、びっくりさせてごめんなさい。でも今の時期、スピカから見たアークトゥルスの辺りに流星群が来ててとても綺麗なんです)
 彼の不安が糸を通じてこちらまで伝わってきて何だか可愛く思えてきてしまった。どんな姿かたちをしているのか知らないけれど、糸を片手にはあと溜息をつく背中の淋しさに種族の壁はない。
��素敵ですね、よろしければご一緒させてください)
��本当ですか! 嬉しいなあ)
 それからしばらく、くいくい、くくいくい、と交信を行い三日後に裏山で待ち合わせをする。





 コトリの宮殿第-2回自由題、あともう少しで掲載。
 僕自身はささやかなものが好きなのだけども、読み手側としては思い切りが足りないのだという。この辺りのすり合わせが今後の課題なのかなー、とかぼんやり。単体で見るから味気ないのだろうし、似たようなものを複数並べてみればまた違って見えるんじゃないかと。そんな風に思った。

 あと一点だけ。
 長身痩躯で知的で黒縁眼鏡をかけてて落ち着いたトーンの声をしていらっしゃるんだろうなと勝手に妄想していたのに、実際に声を聞いてみれば結構な乙女ボイスでつい動揺してしまって「野郎」と呼んじゃったわけじゃないのよ、べべべべ別に。