2008年11月30日日曜日

てんとう虫小メモ

 完全に内輪話ですよっと。

・涎が糸引くよりも唾液が糸引いたほうがエロい。
・いさや×ふらく or ふらく×いさや
・( ゚∀゚)o彡°まーちゃん!まーちゃん!
・トリは天然栽培。これはゆずれない

 まだまだ続く

2008年11月29日土曜日

黒い羊

「黒い羊」

 もこもこひつじ くろひつじ
 ぽーんとさくを とびこえる

 朝、目が醒めると枕元にこんな紙切れがあった。
 私たちの黒い羊を巡る旅が始まる。

 交番で私たち黒い羊を探してるのと言うと、動物は落し物と呼ばないよと言われた。大人はモノがわかってないと私たちは憤慨し合う。
 やはり、大人なんかに、頼っては、いけなかったのだ。
 目配せし合い頷くと、私たちはポーチにレモンキャンディを入れて西へ行く。野良猫や烏に道を尋ね、鯨の背を借りて海を越え、鷲の翼で山を越え、ずっと白い空の遠くへ行く。日が暮れ夕方になると冷たい風が頬を撫で始める。私たちは茜色に染まったひつじ雲の背に飛び乗った。ひつじ雲が鳴く。もこもこに寝転がっているとだんだん空の色が濃くなる。やがて星空の海に変わりおおぐまとこぐまが姿を表した。金銀砂子を散らした川は空のずっとずっと遠くまで流れ行く。
 私たちどこまで行くのかしら。どこでもないところへ行くのよ。なら正義の国だったら良いな。
 くすくす笑い合う。
 もうすぐだね。もうすぐ。もうすぐ! そう、もうすぐ!
 うつ伏せになって前を向いてみると、彼方にきらきら光る虹色の柵が見える。私たちはきゃっきゃと喜び合う。



 タイトル競作 △:2 ×:1
 お粗末さまでした。

 今回の反省点
・ディテールの適当っぷり
・選評のヌルさ
・砂場作見抜けず
・空虹作(ry
・むしろ作者がわからん

 この頃絶不調なのは自覚していたけども、それを差し引いてもひどいひどい。一度原点に帰ったほうがよさげですはい。

 以下、解題兼言い訳。






 発表時に全作にざーっと目を通してみて思ったのが、添田作(17)と拙作はまったく正反対なのだなあ、ということ。添田作は結局元の世界(白い羊たちのところ)に戻ってきたけど、拙作は何の躊躇いもなくあっちの世界(柵の向こう側)に行ってしまった。この違いは各筆者の頭の中身や価値観に起因するものだろう。自分がいかに悪趣味というか未練がないというかろくでなしというかなんというか、やれやれなんだぜ。
 今回のお話は復讐譚。イメージの元は江國香織「なつのひかり」に出てくる意地悪な双子より。持つニュアンスは元とは違うけども、話の大筋は以下の通り。自分が厄介者であると自覚のある二人が自分の世界を構築して“大人”の現実から完全に逃避する。自分以外のすべてに対する復讐。復讐というよりは呪詛に近いかも。自分で自分を生贄にして、“正義の国”から悪である全世界に呪いをかける。そんな話。やっぱりろくでもない。そういう意味で言うと、冒頭の紙切れは破滅のスイッチみたいなもの。これによって外の可能性を知ってしまったわけだから。やっぱり(ry
 いつぞやかのひつじ雲といい、救いのない話が多いのはなぜなんだか。やっ(ry

2008年11月24日月曜日

孤島の研究所

「孤島の研究所」

 年中嵐に包まれる島がこの世のどこかにあり、その島にある研究所で一人の男が何か偉大な研究をしているのだという話がまことしやかに風の噂で世界中に運ばれる。実は、この町の岬からは件の島が見える。正確には、島を包む嵐が見える。と言っても岬周辺の気候は穏やかなものだ。青い空に白い雲、そよぐ風はほんのりと潮の香りを含み心地よく首筋を撫ぜて吹き抜ける。振り返れば赤錆びたバス停と青々と繁る草木が見える。日差しを遮るものがないからあらゆる色はより鮮やかになるのである。ただ一点、あの島を除いて。あんなに高く澄んだ空が島に近付くにつれてだんだん黒ずんでいき、やがて夜闇のように深い雷雲へと変わる。雷雲は時折その体内に白い光を宿らせて呼吸する。降り注ぐ雨は遠目にも明らかに水面に霧を立たせている。そのせいで島影は灰色に霞む。岬に寄せる波が穏やかなのが嘘のようである。
 生まれついたときから見ている景色だったから特別奇異だとも思わなかったのだが、この頃は何だか岬に立つ人が増えたような気がする。噂のせいか。彼らはめいめいに感想をこぼしたり、写真を手にしたりする。ある時など、立派な書状を持ったスーツ姿の集団(三、四人は白衣姿だったけれど)がやってきて、何やら小難しいことをわたしに言った。わたしは馬鹿だからそんな小難しいことはわかりません、と言うと団長さんは、明日から調査活動を開始しますよというお知らせです決してあなたに迷惑はかけませんお約束します、とぶっきらぼうに言った。その翌朝、いつものように岬からぼんやりと島を眺めていると、立派なお船が果敢にも島に突っ込んでいくのが見えた。そして帰ってこなかった。
 ある日、貝殻を拾いに浜に下りてみると、岩陰に大きな瓶が流れ着いているのが見える。中には紙切れが数枚入っている。直感的にこれは、あの島から流れてきたものだと悟った。なぜかと言われれば確かなことは言えないのだけども、その瓶の雰囲気が切羽詰っていたように感じられたからだ。瓶は一刻も早く開封されることを願っている。それはこの辺りのものやわたしのようなのんびり屋にはない気配だった。瓶を開けてみて取り出した紙は古びており、インクがところどころ変色していたが読めないというわけではない。手紙には難しい暗号めいた記号がびっしりと記述されていた。わたしにわかったのは、その日付がおよそ七十年ほど昔のものだということだけだった。それしかわからなかったけれど、これは誰かに宛てた恋文なのだという気がした。なぜならそういう雰囲気だったから。
 手紙は私の机の引き出し奥深くに置いてある。島影は今日もぼんやりと霞んでいる。来春、わたしには子どもが生まれる。

2008年11月16日日曜日

300Hzの交信

「300Hzの交信」

 最果ての島の砂浜に透明な小瓶が流れ着く。少年は身を屈めて拾い上げると水の滴るそれを日に透かした。蓋を外す。と、細く白い糸が口からこぼれて遠い海まで続いていることに気付く。日に煌いたのだ。
 少年は瓶の口を耳元に近づける。透明な小瓶は遠い世界の調べをそっと奏でる。
 ――こちらは最果ての島。聞こえますか。
 糸電話よろしく少年は小瓶に囁きかける。水平線の彼方から寄せる波は少年の踝を濡らし、小さな気泡をいくつも弾けさせるとまた糸の続く先へと引いていく。








 女性の平均的な声の高さは230Hzくらいだそうな。へー。


 

 わざわざ追記で書くほどの内容でもないのだけども、色々メモ代わりに。特に一番目のは他の人の意見も聞いてみたいかもです。はい。
 ***
 怪談の話。大分前に「怪談とは何ぞやか」という話をした覚えがある気がするのだけども、それについて一応の見解がまとまったのでメモ。
 一言で言ってしまえば、怪談とは“境界”をうろちょろする話である。なんて乱暴なまとめ方。
 ふだん自分たち人間がいる場所を人間世界と呼ぶとして、八百万の神さまや妖怪の類が住まう場所を指して異界だとか異郷だとか呼ぶ(正式な名称はよくわからんです、はい)。
 人間世界の物語は、いわゆる普通の物語。神さまの世界の話は、つまり読んで字の如く神話。基本的に前者の役者は全て人間であるし、後者の役者は全て神さま。(ファンタジーとかは色々面倒なので略)
 ところが人間世界と神さまの世界の間にはいわゆる“境界”というものがあり、(少なくとも人間世界の見地からは)その“境界”を跨ぐと神さまの世界つまり異世界へ行ってしまう。異世界には神さまがいる、死者もいる、とにかく自分たち人間とは違うものが住まう場所であると。故に“境界”という窓があって始めて異世界が人間世界の隣にあることが確認できる。
 その“境界”の具体例は、例えば山だったり鳥居だったり水だったりトンネルだったり色々。祭事を取り仕切る神社が山の麓にあるのは、山がすなわち異世界であるから神社が門番のような役割をするからなのだという(麓の農民や村民の心理面を鑑みても、ぶっちゃけ正体のわからない異世界についての専門家が存在することは必要だったんじゃないかと)。この辺りの話は柳田國男や民俗学をあされば腐るほど出てくるんじゃないかな。
 話は戻って、昔から続く怪談というジャンルはどういう特徴を持っているのか考えてみると、よく聞くのはやれ天狗だの幽霊だのろくろ首にぬらりひょん、一つ目小僧といった登場人物のあるものである。けども、その裏にある構造はと言えば。三人称で語るときはその主人公は人間で、またある時は一人称で語るときも当然話者は人間であって、そして語られる対象は上記の妖怪や幽霊などいわゆる異世界の住人である。つまり、人間世界と異世界が重なり合っている領域を舞台に語られている。それはどこか。物理的な“境界”を包括した、いわゆる(概念としての)“境界”である。妖怪や幽霊など即物的な異世界の証明が出現する構造ではなく、人間世界と異世界を挟んだ“境界”上をうろちょろする構造が、怪談の基本的な条件である。と僕は一応定義しておくけども、今後修正は入ること請け合い。
 という条件に従ってみると、例えば、
 夕方五時、からかさおばけがけんけんぱをしようとして困っているのを見かける。
 みたいな一行作品があったとしたとき、これは怪談と呼べるかどうか。決して怖くはない。(むしろ下手糞で見るに堪えなごほごほ。)
 仮に怪談と呼ぶとき、それは「からかさおばけ」という即物的な異世界の証明が出現するから怪談なのではなく、「からかさおばけ」という異世界の住人が「けんけんぱ」という人間世界の遊びをしようとしておりさらにそれを一人称(=作者=読者=人間=人間世界の住人)を主語として「見かける」から怪談になるのではないか。
 そういう構造を前提とするほうが、より説得力のある話を考えられたり迷ったときに示唆になったりするので、何かと都合が良いのです。はい。
 ***
 二番目。Gよろしく地べた這いずり回りながら喘いでる話。
 この頃というか常日頃思うのが、「一年前何やってたっけ」。
 一年前には想像のつかない方向へころころ転がってきたけども、確実に変わったと言えるのは、書きたいと思っていたものが変わった、正確には解消した。一昔前だったら、阿呆なりにも「これだ!!!」と言えるものがあって自分の価値基準に一定のベクトルがあった。だからそのベクトルが強烈に指し示す彼方さえ目指せばよかった。ところが最近三ヶ月くらいで話が変わってくる。ベクトルの解消。何というか、何かと感動が薄れてくるわけだよ。無味乾燥。別に喜怒哀楽がなくなったというわけじゃないけど、それに対して逐一本気になるパッションがなくなってきたというかね。嬉しいにゃ嬉しいけどそれだけに心酔する気にはならないし、腹は立てど飯食って寝ればやり過ごせてしまったりと、何かとさらさら無味乾燥。これがいいんだ! という主張もなんだかスカスカになる。張り合いがない。
 といった感じで地べたを這いずり回っているわけです。いじょ。