2008年11月16日日曜日

300Hzの交信

「300Hzの交信」

 最果ての島の砂浜に透明な小瓶が流れ着く。少年は身を屈めて拾い上げると水の滴るそれを日に透かした。蓋を外す。と、細く白い糸が口からこぼれて遠い海まで続いていることに気付く。日に煌いたのだ。
 少年は瓶の口を耳元に近づける。透明な小瓶は遠い世界の調べをそっと奏でる。
 ――こちらは最果ての島。聞こえますか。
 糸電話よろしく少年は小瓶に囁きかける。水平線の彼方から寄せる波は少年の踝を濡らし、小さな気泡をいくつも弾けさせるとまた糸の続く先へと引いていく。








 女性の平均的な声の高さは230Hzくらいだそうな。へー。


 

 わざわざ追記で書くほどの内容でもないのだけども、色々メモ代わりに。特に一番目のは他の人の意見も聞いてみたいかもです。はい。
 ***
 怪談の話。大分前に「怪談とは何ぞやか」という話をした覚えがある気がするのだけども、それについて一応の見解がまとまったのでメモ。
 一言で言ってしまえば、怪談とは“境界”をうろちょろする話である。なんて乱暴なまとめ方。
 ふだん自分たち人間がいる場所を人間世界と呼ぶとして、八百万の神さまや妖怪の類が住まう場所を指して異界だとか異郷だとか呼ぶ(正式な名称はよくわからんです、はい)。
 人間世界の物語は、いわゆる普通の物語。神さまの世界の話は、つまり読んで字の如く神話。基本的に前者の役者は全て人間であるし、後者の役者は全て神さま。(ファンタジーとかは色々面倒なので略)
 ところが人間世界と神さまの世界の間にはいわゆる“境界”というものがあり、(少なくとも人間世界の見地からは)その“境界”を跨ぐと神さまの世界つまり異世界へ行ってしまう。異世界には神さまがいる、死者もいる、とにかく自分たち人間とは違うものが住まう場所であると。故に“境界”という窓があって始めて異世界が人間世界の隣にあることが確認できる。
 その“境界”の具体例は、例えば山だったり鳥居だったり水だったりトンネルだったり色々。祭事を取り仕切る神社が山の麓にあるのは、山がすなわち異世界であるから神社が門番のような役割をするからなのだという(麓の農民や村民の心理面を鑑みても、ぶっちゃけ正体のわからない異世界についての専門家が存在することは必要だったんじゃないかと)。この辺りの話は柳田國男や民俗学をあされば腐るほど出てくるんじゃないかな。
 話は戻って、昔から続く怪談というジャンルはどういう特徴を持っているのか考えてみると、よく聞くのはやれ天狗だの幽霊だのろくろ首にぬらりひょん、一つ目小僧といった登場人物のあるものである。けども、その裏にある構造はと言えば。三人称で語るときはその主人公は人間で、またある時は一人称で語るときも当然話者は人間であって、そして語られる対象は上記の妖怪や幽霊などいわゆる異世界の住人である。つまり、人間世界と異世界が重なり合っている領域を舞台に語られている。それはどこか。物理的な“境界”を包括した、いわゆる(概念としての)“境界”である。妖怪や幽霊など即物的な異世界の証明が出現する構造ではなく、人間世界と異世界を挟んだ“境界”上をうろちょろする構造が、怪談の基本的な条件である。と僕は一応定義しておくけども、今後修正は入ること請け合い。
 という条件に従ってみると、例えば、
 夕方五時、からかさおばけがけんけんぱをしようとして困っているのを見かける。
 みたいな一行作品があったとしたとき、これは怪談と呼べるかどうか。決して怖くはない。(むしろ下手糞で見るに堪えなごほごほ。)
 仮に怪談と呼ぶとき、それは「からかさおばけ」という即物的な異世界の証明が出現するから怪談なのではなく、「からかさおばけ」という異世界の住人が「けんけんぱ」という人間世界の遊びをしようとしておりさらにそれを一人称(=作者=読者=人間=人間世界の住人)を主語として「見かける」から怪談になるのではないか。
 そういう構造を前提とするほうが、より説得力のある話を考えられたり迷ったときに示唆になったりするので、何かと都合が良いのです。はい。
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 二番目。Gよろしく地べた這いずり回りながら喘いでる話。
 この頃というか常日頃思うのが、「一年前何やってたっけ」。
 一年前には想像のつかない方向へころころ転がってきたけども、確実に変わったと言えるのは、書きたいと思っていたものが変わった、正確には解消した。一昔前だったら、阿呆なりにも「これだ!!!」と言えるものがあって自分の価値基準に一定のベクトルがあった。だからそのベクトルが強烈に指し示す彼方さえ目指せばよかった。ところが最近三ヶ月くらいで話が変わってくる。ベクトルの解消。何というか、何かと感動が薄れてくるわけだよ。無味乾燥。別に喜怒哀楽がなくなったというわけじゃないけど、それに対して逐一本気になるパッションがなくなってきたというかね。嬉しいにゃ嬉しいけどそれだけに心酔する気にはならないし、腹は立てど飯食って寝ればやり過ごせてしまったりと、何かとさらさら無味乾燥。これがいいんだ! という主張もなんだかスカスカになる。張り合いがない。
 といった感じで地べたを這いずり回っているわけです。いじょ。

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