2009年2月14日土曜日

最後の証明

「最後の証明」

 猫暦1993年6月21日、ケンフリッジ大学の教壇に数学者アンドリュー・ニャールズは立っていた。彼は今日この日が数学史にとって、何より彼自身にとって最良の日となることを信じて疑っていなかった。というのも彼は、とある定理の証明に成功したのだ。その名をフェルニャーの最終定理という。フェルニャーの、「この証明を書くには時間が足りない。今日の夕飯はサーモンステーキで、我輩の大好物なのだ」の一文で知られていた定理である。360年にわたって歴代数学者を始めとする多くの数学者が証明に挑み、ごく一部の数学者が岩に滲みる水のようなか細い期待を切り開き、しかし最後には誰一人の例外もなく敗れていった定理であった。
 講義は3日にわたって行なわれ、最終日の1993年6月24日、ニャールズは間もなく証明を終えようとしていた。聴衆は先人たちの努力が実る瞬間を心待ちにしていた。360年来、無数の数学者たちが夢見た瞬間をこの目で見られる幸福に涙する猫も決して少なくない。またたびの香りを染みこませたハンカチーフで目元を拭う様子が会場のあちこちで見受けられた。
 そして――。
 ニャールズは最後の数行を黒板に書いていた。以上で証明を終了しますにゃ。そう言おうと心に決めていた。きっと、頭を下げると同時に爆発的な拍手が巻き起こるだろう。フェルニャーの亡霊にようやく引導を渡すことができるだろう。
 しかし現実は違った。ニャールズが解説を挟もうと振り返った瞬間、会場の扉が勢いよく開けられ、何かが投げ込まれた。それはシューと音を立てる。毒ガスだ! 誰かが叫んだ。聴衆は狂った群集と化し出口に殺到するが、扉は開かない。一体、誰が、何のために。しかし今はそれどころではない。紫煙がたちまち会場に蔓延する。咳き込む聴衆たち。ニャールズも身を伏せたが、数学者としての意地が彼を再び立ち上がらせた。証明を終えずに倒れることだけはあってはならないのである。黒板に手をつき、チョークを叩きつけるようにして証明の最後を書き込む。
 xyz=0
 ニャールズは振り返る。しかし、彼の目に飛び込んできたのは積み重なるようにして倒れている聴衆の姿だった。

 ***

 さて、フェルニャーの最終定理は証明されたと言えるだろうか?


 某所に出そうと思って書いたはいいけど「テーマと違うじゃーん」ということで却下になった次第。祝、お蔵入り。
 シュレディンガーの猫の議論で怖いなー、と思うのは、神様の視点で見たとき仮にそれが事実であったとしても観測者が観測しないうちは「わからない」と判断されること。そりゃ人間様は神様じゃないので「わからない」のは仕方ないのだけども、じゃあ観測されなければ確率変数は1(=存在する)にはならないのかと考えると、なんだかもったいないなあと思うわけですよ、少しだけ。例えば、実はフェルマーは件の最終定理の完璧な証明をどこかに残していたとしても消失してしまった以上はフェルマー流の証明の確率変数の期待値Xは0以上1以下だし、話は飛んで縄文時代のとある村ではとてもドラマチックなラブストーリーがあったのやもしれないし。本当はこんなことがあったのかもしれない、という架空の歴史に思索を巡らせるのは楽しいものです、はい。
��こういうのはクトゥルーに似ているのかも)

2009年2月9日月曜日

てんとう虫と「なんだぃねー」

http://gennari.net/anomaro/reading/
http://blog.livedoor.jp/m-89_59186/archives/51502677.html
http://www.gennari.net/anomaro/stro/index.php
↑この辺りを参照するヨロシ。


 そんなわけで先日は朗読会@ほぼ身内でしたよっと。
 島村ゆにさんは風邪を押してのご参加。お疲れ様でした&お大事に&クダンたんの続きが楽しみです。

・21時、のろのろと開始
・まーちゃん「化石村」、相変わらずの安定感
・脳内亭さんの「銀天街の神様」を読む。やろうとおもって参加すると俄然緊張する不思議
・空虹桜「シロクマ通り」。2006年のトラウマがー、トラウマがー、あうあうー。(MGSP2006の第一回戦で敗北を喫したのがこの作品だったのです。この恨み、晴らさん(ゴゴゴゴゴゴゴゴ))
・ふらくん「色彩漂流」、できたてほやほやの筆おr……書き下ろし

・……という具合でローテーションを組みつつ2周目へ
・途中、各自梅酒を飲んだり「なんだぃねー」と叫んでみたり、相変わらず生活臭がダダ漏れの朗読会
・だがそれが良いのです!

・2周目以降で気になったもの
・まーちゃん「シロクマ通り」
 →拙作。書いたのは2年半くらい前になるのだけども、随分頭でっかちだったなあと思う。ギミック(?)に凝っていたというか。おそらく昔と比べて今のは、だいぶ柔らかくなったというかより感覚的になってきたというか、そんな感じなんだろうなー、と聞いてて思った。
・空虹桜「カウンタークロック」
 →同じく拙作。初出は2005年の千文字世界にして超短編界隈デビュー作。超短編のちの字も知らずに参加した回だったので、今読み返してみると何だか不思議な感じ。というのも、しっかりとオチをつけようとしているのが見て取れるのです。今にはないまた別の味わいがあるのやも、なんて。一定期間より昔に書いたものって、自分の作品であるはずなのに他人の作品のように思えてくるからなんだか面白い。
・まーちゃん「かつて一度は人間だったもの」
 →『鈍色の鍵』考察。初読のときから(良くも悪くも?)最後に出てきた『鈍色の鍵』という単語が目と心に引っ掛かっていて、実際耳で聞いてみてもやっぱり「ん?」と思った。これがいかにもガジェットらしいガジェットなので、ついつい身構えてしまうのです。
・ふらくん「子を運ぶ」
 →目で読んだときは何ともカラフルな印象があったのだけども、耳で聞いてみると妙に生々しく聞こえてきた(人が読んでいるのだから当たり前なのだけども)。というのも、目で読んでいるうちは、語り口は一人称であっても頭の中に浮かぶ図は神視点だったもので。それがふらくんが読むと、声の調子との相乗効果も相まって大分“私”視点に近付いたなあという印象。

・そんな感じで23時くらいにプログラムは終了
・後はご自由に歓談くださいませ
・コピペに残したいスパムメールの話とか
・が、後半は半分眠気で耄碌しておりましたことよ


 お粗末。

2009年2月7日土曜日

ビーフステーキサロン

「ビーフステーキサロン」

 まず一皿目。白磁の平皿にドンと乗るビーフステーキ。焦げ目は網目模様、赤黒い肉汁がかすかに溜まっているのが見える。鼻を近づけてみると、思わず涎がこぼれそうになった。
 これはいけないと身を離し、次の部屋へ行く。白塗りの壁に挟まれ歩くことおよそ三分、ようやく辿り着く。サロンの廊下は長いのだ。部屋の造りは先のものとまったく同じで、ステンドグラスの丸天井に白塗りの壁である。そして中央には大理石の台があり、皿が置いてある。覗く。金縁の白皿は一皿目より大きいが、ビーフステーキはと言えば、より小さい。代わりに厚さがある。断面の色のグラデーションがよくわかる。傍らにはパセリが添えられている。次の部屋へ行く。

「こんにちは」
 七皿目を鑑賞しているときに声を掛けられた。牛である。栗毛の肉牛が尻尾をむちのように左右にしならせている。
「いかがでしょう」
 実に素晴らしいと言うと牛は満足そうに頷いた。私は牛と共にサロンの中を巡った。
��彼は人一倍やんちゃな子で、よく仲間の分の草も食べておりました)
��彼女の育った北の大地では、夕暮れになると影が地平線の彼方まで伸びるのです)
��彼は社会主義崩壊の混乱の最中に殺されました。別に食料に困っていたわけではなかったのです。革命を謳う戦士が、どこぞの部族の習慣を真似て儀式を行なうために彼を手にかけたのです)

「なぜそんな話を私に」
「わかりません。けど、あなたになら話しても良いと思いました」
 牛は私を見送っている。


 ***

 この頃はコピペ集を読むのが楽しい。あれを超短編として捉えるとどーだこーだと考えればキリがないのだけども、ともかく楽しい。

 ようやく時間ができそうなので、これからしばらくごりごりと書き物したりじゃりじゃりと読み物したりできそう。よしよし。

2009年2月4日水曜日

スクリーン・ヒーロー

「スクリーン・ヒーロー」

 路地裏のさびれた映画館。劇場には僕しかいない。中段の中央を陣取り明滅する白黒映画を見ている。
 ――ようこそ。
 祖母は死ぬ間際に僕の手を握り、お前はあの人に本当にそっくりだ、と言った。スクリーンの悪役はたしかに目鼻の筋が僕とよく似ている。我が祖父よ。一万の部下を従えるマフィアのボスよ。
 ――手前の勝ちだ。
 ――……!
 ――手前は知らねェのさ。この世にゃァ正義も悪もねェ。神様も悪魔もねェ。あるのは力だけさ。
 葉巻の煙る部屋。祖父はソファーに深く腰掛けそう言うと、鼻を鳴らして煙を吐いた。主人公の青年は銃口を祖父に向けている。銃口は小刻みに揺れている。
 ――さァ、茶番の幕引きだ。
 そして弾丸が祖父の胸を撃ち抜いた。体が跳ね、祖父はうなだれる。ズームイン。祖父は主人公を睨み上げるとにやりと笑って事切れた。湿っぽいバラードとエンドロール。

「いい映画だったよ」
 半分死にかけの老館長はカウンターで舟を漕いでいる。
「……いい役者だった」
「ありがとう」
 映画館を出ると外は小雨だった。駅に向かって流れる人と傘。その一部に僕も加わる。

 僕を見てマフィアのボスと指差す人はもういないだろう。
 さよならスクリーン・ヒーロー。


 ***

タイトル競作出品。○:2 △:1 お粗末様。
今回一番の収穫はまつじ票を獲得できたこと。やったー。初めてだよ。

そんなわけで今回は12番だったのですよ。ふふふん。
や、でも、あの作品と間違えられたのは光栄です。にへー。<私信


そんなわけで以下解題……という程でもないけれども、反省というか考察というか、そんな感じのものを。


今回一番迷ったのはやっぱり最後の一文。はやかつさんの選評の中で、
��最後の一文が私には興ざめでした。
という箇所があったのだけども、それにはまったくその通りだと思う。うん。後で「やっぱり余計だったなあ」と思うだろうというのはわかっていた上での一文です。
それでも書いた(書いてしまった)のは、どう見ても蛇足で興ざめで白けるであろうこの一文に、どういうわけだか遠回りに回って何か面白い方向に作用するような予感を感じてしまったから。もちろんそう作用させるためにはもっと布石を敷かないといけなかったわけだけども、けどこの一文を投げかけた先にはたぶん何かあるぞと、そんな予感がした次第です。もっとも、この予感が正しいかどうかはわからんのだけれども。
��この一文がなかったら、たぶん今回は見送っていたことでしょう)
 ***
今回、書くにあたって考えたのは「『スクリーン・ヒーロー』とはなんぞや?」ということ。
スクリーン・ヒーローってやっぱりヒーローなんだと思う。誰かの憧れでロマンで夢で理想像なのがヒーローなんだと思う。彼は、例えば他のオトナから見れば一時代を築いた『名優』だったとしても、コドモの目から見た彼(『スクリーン・ヒーロー』)には『名優』という言葉には含まれない、一方的で自分勝手な憧れの対象としての要素が備わっているものだと思う。備わっててほしいなあ。
そんなことをぐるぐる考えながら、かつてのヒーローがヒーローでなくなる境目を、外側から内側から描こうとしてみたのが拙作。うん、難しい。