2017年12月7日木曜日

月兎のユベロ

  一.
 月兎たちは思い思いに青い地球を見上げていた。真っ暗な宇宙で眩しく輝く地球――月兎たちは宝石を見るような心地でそれを眺めていた。
 月兎のユベロは、他の月兎たちと比べて一際強い好奇心を持っていた。彼はたとえばこんなことを思う。
��あの星はどうしてあんなに青いのだろう)
��あの白いもやもやとしたものは何なのだろう)
 ユベロのつぶらで黒真珠のような瞳に映る地球は、決してただの宝石ではなく、何か伺い知りようもない大きな秘密を持っているもののように見えた。ちょっと強く跳んでみれば届きそうなくらい近くにあるようで、実は全然届かないくらい遠くにあるから、ユベロはいつももどかしい心地になる。
 音も聞こえない、匂いもしない、ただそこにあるだけの大きな秘密は、ゆっくりと回転しながらユベロたちの空に鎮座しているのだった。
 一羽、また一羽と、地球を眺めることに飽きた月兎たちが思い思いの場所に散っていく。
 最後まで残るのはいつもユベロだった。時々思い出したように耳やひげを動かして信号を送ってみるが、返事が来たことはただの一度もなかった。

  二.
 月兎たちのコロニーは月の裏側にある。
 コロニーといってもそれは球状の光の珠であった。直径は月兎数十羽分相当で、地表から月兎一羽分の高さに浮かぶ巨大なものだった。
 年老いた月兎は、ぴょん、と光の珠に飛び込むと、溶けて新たな仔兎として生まれ変わる。生まれたての仔兎はくすんだ茶色であるが、毛皮が日の光を浴びているうちにすっかり白く輝く立派な月兎へと成長し、光の珠に還る頃には珠と同等かそれ以上の白い輝きを身に纏っているのである。
 こうして完全に循環している月兎の社会システムがいつ始まったのか、そしていつ終わるのかは誰にもわからない。
 ユベロは丘の上からコロニーを見下ろしていた。
 ――いつか自分もあそこに還る日が来る。そのとき自分は、溶けて消えて再生産されることに抗わずにいられるのだろうか……?
 豊かな光で満ち満ちた月兎が一羽、軽やかな足取りで月面を駆け、弧を描いてコロニーに飛び込んだ。
 コロニーは、ぼうっ、と一層強く輝き、それからゆっくりと元の明るさにもどっていく。
 そして、新たな月兎がもぞもぞとコロニーの奥で蠢き、注意深く見ていなければ誰も気付けないくらい、ひっそりと生まれ落ちた。
 仔兎は左右を見渡し、耳をピンと立て、ひげを揺らす。自分が為すべきことは何か。使命感にも似た本能で日光が当たる場所へ駆けていく。
 ああ無理だ、とユベロは思う。
 自分は、あんな風に盲目的にはなれない、なれっこない。集めてきた光をコロニーへ誇らしげに還元させて一生を終わらせるなんて、ぞっとする。
 まったくいつからユベロは懐疑的になってしまったのだろうか。考える間でもなく、それは、あの大きな秘密に魅せられた時からだ。一度気付いてしまったのなら、もはやただの月兎ではいられない。

  三.
 月兎たちがユベロを遠ざけるようになったのか、ユベロが離れていったのか定かではないが、いつからかユベロは月兎の群れから孤立するようになった。ユベロに言わせればそれは月兎からの独立であったのだが。
 見晴らしの良い丘を選んでそこを根城とする。起きているときは大体地球を見上げている。爪など何か固いものがあれば、地面に考えていることを書き留めることもできたのかもしれないが、ユベロの丸い手足ではそれも適わないので、意識を集中させて、その目に見えたものやその頭で考えたものの全てを記憶する。
 最も怖ろしいことは、記憶に留めたものを忘れてしまうことではなく、忘れてしまったことを忘れてしまうことだ。
 記憶に穴ができないように、ユベロは記憶を時系列順に思い起こすのだ。そのとき、最初に思い出すのは、視界いっぱいに広がる青い地球だった。あれほど澄んだ青色を、ユベロは他に知らない。今目の前にある青色も十分驚くべきものであるが、最初の記憶にある青色はそれ以上に青かった。
 哲学するユベロの立ち姿は、他の月兎たちにとってはまったく理解し難いものだった。時々、何も知らない仔兎がユベロの近くまで行くが、あの哲学する月兎は自分たちとは異なるものであることを何となく察して、離れていくのだ。

  四.
 ながい月日が流れ、ユベロはすっかり老いた。
 思考は逡巡し、宙に浮かぶ大いなる秘密にはほんの少しも触れなかった。もはや無感動になった憧れを胸に、ユベロは地球を見上げている。
 ユベロはもう自分がながくないことを知っている。どれだけの時間を過ごしたかも憶えてないが、結局ユベロは地球を見上げて思考することしかできなかった。何も成せないまま、何も残せないまま、自分が消えていくということが怖ろしくて悔しい。何かを残そうにも手段がなかった、誰かに伝えようとしてもここにいるのは無関心で無感動な月兎たちだけだった!
 そのとき瞳から流れたのが涙であったことをユベロは知らない。しかし溢れた黒色の涙は、ユベロの白く輝く毛皮を、触れたそばから黒色に染め上げていく。黒色の汚染はじわじわと広がっていき、やがて全身に染み渡った。ユベロは自分の身に起きた変化に気付いていない。
 ユベロはゆっくりと腰を上げた。どうせ最後なのだから、最後くらい月兎の使命に従順になるのも良いのではないか――しかしユベロはすぐに腰を下ろしてしまう。ただの一瞬でさえも、目を逸らしてしまうことがもったいなかったからだ。意識が果てるその最後まで、ユベロはユベロであり続けた。これがユベロの誇りだった。

  五.
 その頃、コロニーで一つの変化が起きていた。
 コロニーは、ぶるっ、と身震いをすると、隠れていた耳や手足を伸ばし、一羽の巨大な月兎になった。
 辺りにいた月兎たちは目覚めた女王に傅き、後に従った。

 月兎の女王はゆったりとした足取りで地球がよく見える丘へ向かう。

 辿りついた丘の先端では、ユベロが凛と鼻先を地球に向けたまま事切れていた。
 女王はしばらくユベロを見下ろした後、ユベロに並んで腰を下ろし、ユベロがそうしていたように地球を見上げる。しかし女王にとってそれは、綺麗な青色の宝石以上のものではなかった。一体何が、このかつて月兎だったものを突き動かしたのか。
 女王は顔をユベロに近付け、口を開くとユベロを丸呑みにしてしまう。
 再び女王は地球を見上げる。ピン、と立てた耳の右側の先端に、うっすらと黒い筋が浮かんだ。女王は青い宝石を飽きるでもなくただひたすら眺めていた。

  六.
 それからはるか未来のこと。
 地球からやってきた月面調査隊は、降り立った月に何の生命の痕跡も見つけられず、月はただの無機質な岩の塊であると結論付けた。



秋の牢獄

 罪を犯したのか、あるいは逃避の末に自ら望んだのか、記憶はないけれども私は秋に閉じ込められた。
 まばらに生える木々は皆枯れているが、背は高く、先端はよく晴れた空に吸われて消えている。その空の彼方から雨のように赤や黄色に染まった枯れ葉が降ってくる。歩けばさくさくと乾いた音がする。土の匂いがする。
 遠くから、木を切る音が聞こえる。こーん、こーん、と甲高い音だった。
 音の元を辿ってみると、そこにいたのは木こりの男だった。巨大な背中を丸めて根に近い幹に斧を当てている。やがて木は自重に耐えかねて折れた。その様子を私と男は眺めていた。
「家まで運ぶんだ。手伝ってくれんかね」
 男と二人で長い木を小屋まで運ぶ。運び終えたら男はその場で木を細かく断ち切る。薪にするのかと尋ねたら、そうだと男は答えた。私はその様子を眺めている。男は慣れた手つきで薪を作っている。
 それから数百日、男と暮らした。幾度となく肌を重ねあう間、様々な獣の毛皮を剥ぎ、男と私は冬に備え続けた。しかし冬が訪れる気配はない。
 行為はいつも唐突に始まる。男が私を組み伏せる。その間私は枯れ葉がとめどなく降ってくるのを眺めている。まだ私は埋もれないらしい。

��**

「もうすぐオトナの超短編」たなかなつみ選自由題最優秀賞

灯火ひとつ

 六角形の閲覧室で本を読む。この図書館にはありとあらゆる書物が収蔵されている。

【任意の自然数n, mについて、n種類の文字を用いたm字の文章はさながらn進法で表現されたm桁の数字とも呼べるものであり、これらは可算無限集合である。もちろんこれらのうち我々にとって意味を成す文章となるものはごく一部であるが、無限から一部を切り取ってもやはりその集合は無限である。】

 ページを捲りながら私はノイズの海を泳いでいる。時折意味を成す単語や文に出会うが、それはすぐにノイズの波に飲まれてしまう。一冊を読み終えた後で心に残るのは一瞬浮かんで消えた単語や文である。それらは私の心を揺蕩いながら居場所を探している。

【物語がnのm乗で表現されるとき、我々が疑似体験する遠い異世界や誰かの心情はnのm乗個以上のものにはならないのだろうか。】

 遠い昔に見つけた一節を思い出す。機械的な文字順列の偶然の産物が物語は有限か無限かの境界を問うていた。それはどこにあるのだろう。きっと、読み手である私の心にあるのだろう。もしも私の心こそが、浮かんで消える偶然に彩りや魂を持たせているならば、それらは集まりいつか大国のレリーフを刻むのだろう。

��**

「もうすぐオトナの超短編」松本楽志選兼題(此処ではない何処か)
http://libraryofbabel.info/

素敵なおはなし

 世界は一本の長い紐でできていて、複雑に、緻密に、丁寧に編まれている。空も大地も、生命も、社会も、全てが一本の紐で繋がっている。
 しかし世界は一本の紐であるのだから、必ずどこかに端がある。その端が自分の右手の小指であると知ったとき、少女は恐ろしくなり、誰にも明かさない秘密にしようと誓った。なにせ、小指を引っ張ると指はどこまでも伸びて、山が崩れたり学校の先生が失踪したりするのだから。
 彼女は夢想する。世界のどこかに、自分と同じように世界の端を持っている人がいて、自分たちは結ばれるのだ。世界は環になれる。そんな運命の人が世界のどこかにいる。
 数年後、果たして彼女は世界の端に出会う。誤算なのはそれが蛙だったことだが、大した問題ではない。不自然に伸びた左足を編んで整えてやり、彼女は自分の右手の小指と運命の蛙の左足を絡めて結ぶ。彼女は蛙の真っ黒な瞳を愛しげに見つめ、そして優しいキスをする。

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「もうすぐオトナの超短編」タカスギシンタロ選自由題最優秀賞