2009年5月26日火曜日

期限切れの言葉

「期限切れの言葉」

 我々が対象とし得る一切の概念を一枚の広大な白地図で表すとしよう。このとき言葉とは白地図に描かれた国、あるいは国と国を繋ぐ橋である。国々を巡り放浪した軌跡こそが、普段我々が文章や物語と呼ぶものである。

 午後をまわり日に陰りが見えた頃に舟を出す。浅い水底を櫂で突き押し、色の無い海へ漕ぎ出した。桟橋で手を振る者らには櫂を掲げて応える。空には不穏な雲。
 国は単体ではなく複合体として捉えるべきである。例えば張り巡らされた街道は何の為にあるのか。街道とは脈である。人や物を運ぶために存在するのであり、結果、異なるもの同士の交流がある。
 かつて繁栄を約束された国があり、しかし間もなく滅亡を迎えた。その理由や経緯を問うことに根源的な意味はない。全ては成すがままにと思うから。あらゆるものに流れがあり、それは時に歴史や時代といった語で以って形容される。

 とある亡国を歩いていると白い灰と化した一切が、消え行く記憶を私に訴えかける。どうか忘れないでくれと。廃屋、馬の蹄の跡、壊れた玩具。
 このように、しかし記憶も残せず約束を反故にされた国はどれだけあったことだろう。叫びは空耳として誰かに届くか。いや、届いた。


 ***

タイトル競作、○:1 △:2
お粗末さまでした。

というわけで大当たりです。チッ!!<私信@作者当て
ひょーたくん曰く、「あんなん、いさやんしかいない」だそうです。そーなのかー。
個人的な予想は14、30、34あたりじゃないかと思っていたのですが、そうくるか(笑)。


今回のは久しくやっていないやり方でのアプローチだったような気がする。すごくふわふわしながら書いた。いや、普段からふわふわいけない子な気もするけど、頭の9割をオフにして残りの1割を省エネ運転しながら書いたような具合、だったような気がする。

今回、秘かにミソだと思っていたのは、客観的な立場を固持しようとする“私”が最後の最後にブレる辺りかなあ。特に最後の一文は書き手側の個人的な願望も兼ねているので、侘助さんには「興醒め」と言われたけれど、それはそれで一つのアンテナの引っ掛かり方だと思うので、まぁそれもいいんじゃないかと思ったり思わなかったり。


あと今回のタイトルはえらく難しかったんじゃないかなあと思う。楽なタイトルがあった例がないんだけども。
「期限」に似たものに例えば「時限」があるけど、これらはいずれも時間的制限を表す言葉。「時限」と違うところは、個人的な感覚になってしまうけど、時間的制限の期間の長さじゃないかと思う。その「期限」を使った短文なら、例えば「約束の期限が切れる」「賞味期限が迫る」とか。ともかく時間は過去から未来へ一次元的に流れるものという前提を立てた上で、その一本のひょろ長い糸に赤いマーカーで印をつけた任意の場所こそが「期限」だし、それが切れるということは印よりも後ろの状態にあるということ。
対して「言葉」はと言えば、定義の仕方や捉え方は多々あれど、基本的に時間的制限、ましてや任意の時点における時間的制限は課せられないわけで、だからこそ今回は難しかったのだと思う。一方でだからこそ面白いとも言うけども。その点、今回の5の作品は鮮やかすぎるくらいスマートにこの葛藤をクリアしていたと思うのなー。票は入れてないけど。

話は翻って、「約束の期限が切れる」と「約束を反故にされる」を比べたとき、後者の方が明確に悪意が込められているような気がする。他動詞だから主語と目的語が凛として表れるせいもあるけど。
前者は大きな自然の流れに任せた結果、自然と「期限が切れる」。だけど普通の人には自然で当たり前に思える成り行きも、仮にこの世には時間までも司る神さまがいて、その神さまが不実だと思ったならば、それは「期限が切れた」のではなく「(神さまが約束を)反故にした」と考えることもあるのかもしれない。
という解題でした。
おそまつ。

2009年5月13日水曜日

はるけし山の声

「はるけし山の声」

 うつ伏せになって足を泳がせながら、指で赤い木の実を弾いて遊ぶ。てっぷりとふくよかな唇を指でさわりつつ。秋の木陰は色を持つ。茜色の影に閉じ込められた私は永久に舞う木の葉の中に。ここはどこ、と尋ねたのも今は昔。


��**

ラノベで好きな作家といえば、迷わず壁井ユカコを挙げる。
先日、ようやっと壁井ユカコ『鳥籠荘の今日も眠たい住人たち⑥』を見つけたので衝動買い。ずっと前に出ているのは知っていたけど、どういうわけか巡り合わせが悪く、いよいよアマゾン先生の出番か、と思った矢先のことだった。⑤までしかなかったり、他シリーズばかりが完備されていたり、⑥が出たというのは壮大な釣りなのかしらんなんて思ったり。


そういえば先日は文フリがあったそうで。
色々なレポを読む限りだと大変面白かったみたいで、何より何より。
タカスギさん×モカさんのコラボがひそかに気になっていたりするので、今度、持ってる人は見せてね。

2009年5月3日日曜日

真珠の涙

「真珠の涙」

 ルビーやサファイアの涙を見て喜ぶ人たちというのは、とても俗物的なのだと私は思う。それを見て哀しむ人たちはもっと卑しい。宝石の涙も、透明のしょっぱい涙も、その人の強さの証だと思うから。そういう話は、五番目か六番目に心を許している人にしか話さない。
 もしも生まれ変われるのなら、私は貝になりたい。巻貝ではなく、二枚貝がいい。日の届く浅瀬で潮にたゆたうのだ。岩礁の狭間で、満月の晩に若布だか昆布だかの胞子が舞うのを見るのだ。貝に目があるのかなんて知らないけれど。海の中でも私はいじめられるだろう。私より体の大きい巻貝に小突かれ、魚には尾びれであしらわれる。そのたびに私は誰もいないところを目指して泳ぎ、つかの間の安住を得る。
 潮の流れに乗っていけば、いつか私の知らない場所に流れ着くことだろう。そこは私のいた日の届く小さな浅瀬からはずっと遠く、ずっと暑いかもしれないしずっと寒いかもしれない。いずれにせよ、私はいつか道半ばで倒れることだろう。そうなりたいわけじゃないけど、しかしまったく憧れないと言えば嘘になる。潮の流れから外れ、ふんわりと身を横たえたのは太平洋のど真ん中。そこに古代文明の名残があるかどうかは、日のまるで届かない深い海底なのでわからない。仮に、朽ち果てた祭壇で私が事切れたとしよう。貝としての私は泥に食まれ、後にはささやかな真珠が残る。それには口の利けない私の言葉が詰まっている。その真珠を粉々に打ち砕いてくださいと、私は最後に祈祷するのかもしれない。

��**

モラトリアム延長戦に入って以来、論文なるものを読む機会がぐっと増えたのだけども、どうしても気になって仕方ないことがある。

特に日本語の論文を読んでいると、結構な高確率で、句読点がカンマやピリオドだったりすることがある。

 ↓↓↓
例えば","こういう具合"."
 ↑↑↑

節子、それ日本語やないで、英語や! ということでとても違和感がある。
��しかしよくよく考えてみれば感嘆符も同類と言えば同類か)
ずっと昔のまだパソコンで日本語を表記するのが難しかった時代の名残が習慣として根付いたのが実際のところなのだろうけど、こう、やっぱり、気になるよなぁ……。
もっとも読点がカンマになったところで文意が損なわれるわけじゃないので、結局慣れの問題だろうと思います、はい。