2009年5月3日日曜日

真珠の涙

「真珠の涙」

 ルビーやサファイアの涙を見て喜ぶ人たちというのは、とても俗物的なのだと私は思う。それを見て哀しむ人たちはもっと卑しい。宝石の涙も、透明のしょっぱい涙も、その人の強さの証だと思うから。そういう話は、五番目か六番目に心を許している人にしか話さない。
 もしも生まれ変われるのなら、私は貝になりたい。巻貝ではなく、二枚貝がいい。日の届く浅瀬で潮にたゆたうのだ。岩礁の狭間で、満月の晩に若布だか昆布だかの胞子が舞うのを見るのだ。貝に目があるのかなんて知らないけれど。海の中でも私はいじめられるだろう。私より体の大きい巻貝に小突かれ、魚には尾びれであしらわれる。そのたびに私は誰もいないところを目指して泳ぎ、つかの間の安住を得る。
 潮の流れに乗っていけば、いつか私の知らない場所に流れ着くことだろう。そこは私のいた日の届く小さな浅瀬からはずっと遠く、ずっと暑いかもしれないしずっと寒いかもしれない。いずれにせよ、私はいつか道半ばで倒れることだろう。そうなりたいわけじゃないけど、しかしまったく憧れないと言えば嘘になる。潮の流れから外れ、ふんわりと身を横たえたのは太平洋のど真ん中。そこに古代文明の名残があるかどうかは、日のまるで届かない深い海底なのでわからない。仮に、朽ち果てた祭壇で私が事切れたとしよう。貝としての私は泥に食まれ、後にはささやかな真珠が残る。それには口の利けない私の言葉が詰まっている。その真珠を粉々に打ち砕いてくださいと、私は最後に祈祷するのかもしれない。

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モラトリアム延長戦に入って以来、論文なるものを読む機会がぐっと増えたのだけども、どうしても気になって仕方ないことがある。

特に日本語の論文を読んでいると、結構な高確率で、句読点がカンマやピリオドだったりすることがある。

 ↓↓↓
例えば","こういう具合"."
 ↑↑↑

節子、それ日本語やないで、英語や! ということでとても違和感がある。
��しかしよくよく考えてみれば感嘆符も同類と言えば同類か)
ずっと昔のまだパソコンで日本語を表記するのが難しかった時代の名残が習慣として根付いたのが実際のところなのだろうけど、こう、やっぱり、気になるよなぁ……。
もっとも読点がカンマになったところで文意が損なわれるわけじゃないので、結局慣れの問題だろうと思います、はい。

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