2006年9月15日金曜日

6 動かない右手

 ぼくらの前を右手が横切る。五本の指で器用にアスファルトの上を走っているのだ。あ、右手だわ。と彼女は呟き駆け出すので、ぼくもまた彼女と右手のあとを追う。碁盤の目の街には無数の十字路と交差点があり、右手は迷いなく右へ左へ正面へと走る。彼女もぼくも右へ左へ正面へ。何度目かの交差点を過ぎたときに、あ、人間だわ、犬が駆けてくる。あ、犬だ。あ、自転車だ。あ、ゴミ袋だ。あ、あ、あ。長い列を引き連れて右手は走る。列はどんどん長くなり、碁盤の目の街を不気味な蛇がうねうねと這い回るようになる。ぼくらは夜も昼もまた次の夜も昼も走り続けたが、あるとき何の前触れもなく右手は走るのを止めてしまった。彼女はつんのめりながら止まり、ぼくはその背中にぶつかる。息をつく間もなく後ろから犬、自転車、ゴミ袋。次々と襲い掛かる衝撃の中でぼくが見たのは、そろり、と歩み出す右手の優雅な指の動き。みんなで息を呑み、ぼくらは右手と左手の再会を見守った。ひしと抱き合い動かない右手と左手。その姿に、ぼくらは大いに涙する。結婚しよう、とぼくは彼女の耳に囁いた。



 お題六~
 次は『もう一度会いたい』

2006年9月14日木曜日

5 黒いラブラドール

 ぼくらは日が沈むと、丘のふもとで落ち合いてっぺんまで一気に駆けていきます。星の降る夜は素敵です。ぼくらは肩を寄せ合い、おずおずとどちらからでもなく歌を歌い始めますが、すぐにのびのびとした声になります。ひいんやりとした空気は遠くの空まで声が澄んで響くので歌っていてとても気持ちが良く、ぼくらは息する間も惜しんで歌を歌います。リズムに合わせて、右に、左に。星のまたたきを指揮代わりにフェルマータ。海から吹き寄せる潮風がぼくらの歌を山の向こうの、もっともっと向こうのまだ見たことのない世界まで運んでいきます。まるくてあたたかい街の灯がぽつ、ぽつと消えていく度に、ますます月はくっきりと星はきらきらと現れるので、ぼくらはとてもたのしくなります。そして、くそったれな大人たちには、まっ黒なぼくらがみえないので、ぼくらは誰にもはばかることなく、いつまでも歌を歌うことができるのです。


 お題 五
 次は『動かない右手』

2006年9月12日火曜日

4 禊

 最愛の人を失うのは確かに悲劇だった。私は三日三晩泣いたし、親兄弟親戚友人から慰めにならない慰めも受けた。あんまり落ち込むものだから、心配した周囲の誰かが「山に行ってきな」と言い上司も了解をくれたが、何故山なのかは結局訊きそびれた。ふらふらふらりと登山コースを辿り、途中の滝で修行に励むお坊さんに出会う。お坊さんは私を一目見るなり「これはいけない」と寺へ連れ込み修験者よろしく白装束に着替えさせ、先の滝のたもとまで連れてきた。清らかな水に打たれて悪い憑き物を落としてしまいなさい。でも見ず知らずの人間にいきなりこんなことをやらせるなんて、失礼じゃあありませんこと? 帰らせていただきますわ、と私が去った後でお坊さんは大声で念仏を唱えながら滝に打たれる。私は服を取りに寺へ戻り、着替えたついでに本堂を覗くと、大仏様がおわせられる。正座して、じい、と見上げて差し上げたら、なんとなく、大仏様気まずそう。


 お題其の四
 次は『黒いラブラドール』

3 ふりむいてはいけない

 おさない腕にぬいぐるみをたずさえて、少女はうねうねとつづく小道をあるく。ちいさな足跡は今や幾万。さいしょの一歩は永く地面にはりついていたが、とうとう風にあおられてとんでいってしまった。ひゅうるり、ひゅうらり。さいしょの一歩はひるがえりながら己の分身をおいこしおいこし、少女がつぎの一歩をきざむまえに靴のうらにはりつき、まんまとつぎの一歩になりすます。われも、われも、と二歩目三歩目四歩目も風にのり、少女のみぎの足跡、ひだりの足跡になるのだ。そんなことがつづくので、足跡になるはずだったものたちは少女をうらぎり各自の好きなかたちでちりぢりにちっていく。ねこのかたち、きりんのかたちが少女の足跡からうまれ、どこかへさっていく。
 みたいかい? でもだめだよ。
 なんでだめなのか少女はおしえてもらえない。わがままをいうと、ぬいぐるみは少女をうらぎり一緒にねてくれなくなるからだ。



 お題第三弾。
 次は「禊(みそぎ)」だそうな。

三行日記198

 昔、好きだったものに今再び触れてみて、その価値を再認する。
 あの時「これはいい」と言った自分は、正しかったのだ。
 帰納的に、今もまた。