2010年11月11日木曜日

親指の交換

「親指の交換」

 遠くへ行ってしまう彼女と親指を交換した。決して厚くないはずの手のひらが無骨に見えるほど、彼女の親指はほっそりとして生白かった。ぎゅっと親指を四本の指で包み拳を握ると、彼女と手を繋いでいる心地がした。
 たとえば親指に口付ける。神経は彼女のものであるので、僕の手元にある親指から直接唇の感触を得ることはできないが、間もなく柔らかい唇の感触が親指があるはずの場所に生じる。彼女もどこか遠くで同じように口付けているのだ。僕たちはそのようにして意思疎通を図ることができる。親指に絡みつく風の冷たさで向こうの空気の具合がわかる。二人で一緒に犬の背を撫でることもできる。拳を握る強さで今愛おしく思っている程度だって伝え合うことだってできた。
 ある晩のことだった。突如親指がかっと熱くなったかと思うと、それはたちまち激痛に変わった。驚いて冷水に指を突っ込むがそれで痛みが治まるはずもない。目尻に涙が浮かんだ。蛇口から噴出する水の音も遠のくほどに親指の神経から伝わる刺激が脳をがんがんと叩いていた。彼女に一体何があったのだろうか――問うても答えに挙がる候補は限られ、いずれも不吉だった。
 翌日、彼女のアパートが焼けたことを知った。隣人の煙草の火の不始末だったという。彼女の消息は知れなかった。どこかの病院に搬送されたのか、あるいはそのまま帰らなくなってしまったのか。足の向く限り消息を追ってみたけれどとうとう見つからなかった。
 親指を擦る。しかし返事が返ってこない。僕の親指の感覚もまたすっかり消え失せてしまっていた。だが彼女の親指は今なお瑞々しく、爪も伸び続けている。
 どこにいるの?
 げんき? 
 楊枝で親指に手紙を書いている。

��**

フシギな恋の超短篇に出し損ねたなにか。

2010年11月10日水曜日

I'm home

「I'm home」

 満月の晩、我々は一斉に舟を湖に出す。櫂で水を掻き、ぐんぐん進むと間もなく湖の中央へ辿り着く。その湖は広大で全方位に渡って水面が空を切り分けていた。
 その湖の下には都市が沈んでいるのが見える。尖塔がいくつも連なった台地の砦だ。しかしよくよく見てみれば哨兵が立って巡回しているのが見える。鷲の大旗は雄大にそよぎ、門から豆粒みたいな馬車が出入りする。
 我々は長の言葉を待つ。長は立ち上がると周囲をぐるりと見回し口を開いた。
「かつて我々は郷を追いやられ、流浪の世紀を過ごした。しかし今、我々は帰ってきた。年月は我々の体を変えたが心は不変であり続けた。諸君はその胸に手を当てるが良い。諸君の胸に溢れるものは何だ」
 感極まった一人が、帰りたい、と叫ぶ。連鎖的に皆が声を上げる。帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい、帰りたい!
「帰ろう、我々の郷へ」
 そして我々は湖へ身を投げた。水は肺に満ち満ち、頭を朦朧とさせる。それでも帰郷を諦める者はいない。代わりに一人また一人と息絶え身を浮かべていくのだ。長も息絶えた。しかし我々は諦めない。醜悪な翼が水を泳ぐひれに変わり、鋭い爪が水を掻くひだに変わり、柘榴色の肺が水で呼吸するえらに変わるまで。意識が途絶える狭間で我々は我々を阻む水の抵抗がだんだんと薄らいでいくのを感じていた。そして青灰色の景色がその色を失い代わりに草木の緑や城壁の灰色が鮮やかに映えるようになる。ここはもはや水の中ではない。大気である。魚に身を変えた我々はぼとぼとと地表へ落ち、瞬く速度で進化を始める。魚類から両生類へ、爬虫類へ、そして哺乳類へ。急速な進化は我々の体に更なる負担を強いた。その過程でまた多くの仲間が耐え切れずに倒れていった。今や生き残っているのは初めの百分の一にも満たない。我々は瞬く間にヒトへ進化したが、しかし試練はまだまだ続く。ヒトの更なる先へ。脳の肥大化と体の縮小化の時代を経て続くは、それに対する反動とも言うべき肉体の過膨張、肉体が肉体を飲み込む、我々は我々と融合する。
 ――どれほど時間が経ったことだろう。気付くと我々は痛みを乗り越えていた。我々の周りには郷の者らが集い我々を囲んでいる。我々は彼らを懐かしい面持ちで見下ろし、ようやっと口を開く。
��我々は帰ってきたのだ!)

��**

文芸スタジオ回廊様の1000文字小説企画に投稿。

書籍掲載1

「愛玩動物」『超短編の世界』創英社
「たまねぎ」『超短編の世界vol.2』創英社
「帰郷」『未来妖怪――異形コレクション』光文社文庫
「傘の墓場」「東の眠らない国」『てのひら怪談 庚寅』ポプラ文庫
��「秘密の園」:『てのひら怪談 庚寅』(ポプラ文庫)のオンライン書店ビーケーワン様での購入者特典として)

午睡の続き

「午睡の続き」

 ――ずいぶんながく眠っていたらしい。
 目が覚めるともう放課後で、教室に私一人が残されていた。
 うっすらと授業の跡が見える黒板、その上にあるかすかに埃を被ったスピーカー、わずかな隙間から吹き込む風に揺らめくカーテン。整然としているように見えて、実は少しずつずれている机たち。脇にぶら下げられた生徒の荷物は混沌としている。普段はそんなこと思いもしないのに。
 時刻は16時半。運動部の掛け声や、吹奏楽部の無秩序な楽器の音が、耳を澄ましてみれば密やかに聞こえてくる。暮れなずむ光が汚れで黄ばんだカーテンを煌々と染め上げる。誰かが教室の前を通り、去っていく足音が。
 午後の国語の授業はとても退屈で、ノートの端に書いた落書きにも飽きるといよいよ机にうつ伏せ深く息をついた。クラスの生徒のほとんどが同じように机にうつ伏せ、起きているのは一部の真面目な生徒だけだった。チョークが黒板を叩くリズムは緩やかで、間のびした音読の声は低く耳に心地よい。来月はもうテストだっけ? 夢現にカレンダーを思い出す。来年に迫った受験のことや、気になるあの人のことや、仲間内でのくだらないトラブルのことや、全部頭の隅のずっと彼方に追いやって、今は食後の気だるい午睡を貪った。不意に出た欠伸を噛み殺し、にじんだ涙を裾で拭う。いつか終わるのだろうか、この果てしない悪夢は。日の当たるこの席は蒸し暑く、背中や膝の裏に浮かんだ汗はただちに制服に染み私を締め付ける。私の魂はここではないどこかを求めていて、ずっと遠くを望んでいるけど、肥え太った肉体に阻まれほんの少しだって飛べやしない。幼かった頃には遥かな地平に見えた世界は、そこに果てがあるとわかった日から檻だったのだと気付いた。人の定めた道理に始まり人という種の限界まで、あらゆるものが私のできることとできないことを区別していく。その様を現在進行形で目のあたりにしている。幼い頃に憧れた未来を実現できた大人はどれだけいるものか。私たちは抗い方を知らない、叫び方を知らない、そもそも私たちの敵を知らない。間のびした音読の声が、直近のスケジュールが、気だるい午睡が、緩やかに私を私と規定する。ずるずると私は眠りの底に引きずられていく。
 ぐっと伸びをして、机に爪を立てる。しかし今は不思議と体が軽い。私は足取り軽やかに机を駆けると、わずかに開いた窓から箱みたいな教室から逃げ出した。ながい悪夢を見ていた気がする。透明な猫はいなくなった。空の教室を眺めているのはだれ?

��**

昔のフォルダを漁っていたら発見。元々某所に投稿したものだったけど、投稿先のサイトが閉鎖してしまったので、紛失する前にぺたりとな。