2007年9月17日月曜日

うんざりするくらい大きなもの

「うんざりするくらい大きなもの」

 それはうんざりするくらい大きなものだった、とうんざりするくらい優しい声で言うのでつい手を止めて聞き入ってしまった。

 何にもないところにそれはあって、両手を目一杯広げても幅の十分の一にもならない。薄茶色と薄灰色のしま模様が右斜めに入っていて、その幅は握りこぶし一つ分。ぐっと上を見上げてもてっぺんなんかまるで見えなくて、空のどこかですうっと線が消えていた。
 とりあえず周りを歩いてみた。
 右手でそれを触りながら歩くとしま模様がぐるぐる動いて、なんとなく床屋を思い出した。それは完全な円形だった。何周歩いたかわからなくなった。
 手触りは固くも柔らかくもなくて、冷たくも温かくもない。ざらざらでもつるつるでもない。力を込めて押してみたら、なんとなくだけど、へこんだ気がした。手を離したら元に戻った気もした。
 結局わたしにはそれが何なのかさっぱりわからなかった。だけど背もたれにはちょうどいいと思ったから、そこに座って本を読むことにした。しかし来る途中で半分くらい読んでしまっていたし、新しい本も持っていなかった。読み終わってしまったらどうしようか迷ったけれど、それは読み終わってから考えればいいことだと思った。
 しおりを傍らに置いて、それに背もたれて、じっくりと本を読んでいたら、真反対に誰かが来て背もたれた。荷物を置く音や、ふう、と息をつく音が聞こえたから。
 何にもないところにそれがあって、あとわたしともう一人誰かがいるのはとても自然なことに思えた。そよ風なんて吹かないし、太陽も星もなければ草も土も何もないところだけれど、それとわたしと誰かがいたって別にいいと思った。
 わたしが本の残り数ページを読んでいるとき、反対側で彼(誰かのことだ、もしかしたら彼女かもしれない)はたぶん弁当を食べていた。プラスティックのフォークが弁当箱の底に当たる音がしたから。
 本を読み終わるのと同時に彼も弁当を食べ終わり、それからしばらく二人でぼうっとしていた。上を見上げると相変わらずそれはうんざりするくらい大きくて、てっぺんなんかまるで見えなくて、空のどこかですうっと線が消えていた。薄茶色と薄灰色のしま模様があって、その幅は握りこぶし一つ分。手触りは固くも柔らかくもなくて、冷たくも温かくもない。ざらざらでもつるつるでもない。ぽかんと口を空けて手足を投げ出して、これからどうしようかと考えた。家に帰ろうかもうしばらくここにいようか。何にもないここはそれなりに気に入っていたから、もうしばらくここにいようと思った。
 それから脈を千回数える間、わたしと彼はここにいて、わたしは何にもない空を見ていた。地平線なんか当然ない地続きの空を見ながら千五十まで数えて、立ち上がった。しおりは本の一番最後のページに挟んで、荷物はまとめて、それを背にして歩き始める。彼はまだいるかもしれないし、もういないかもしれないし、もともといなかったのかもしれないけれど、それは問題ではなかった。
 帰りはX駅の始発の電車に乗ってきた。売店で買ったばかりの本を何ページか読んでいるうちに眠くなって、目を醒ましたら電車はもう動いていた。まばらに立つ人たちの間から窓の外が見えて、空は絵に描いたみたいな夕焼け空だった。夕陽に近い雲は真っ赤に燃えてて、それから遠のくにつれてだんだんくすんだ色になって、そのうち紫紺の空に融けていくのがなんだか綺麗だなって思った。

 あと、これがおみやげ。と言って差し出したのは駅前のケーキ屋のレアチーズケーキだった。ぼくはここのレアチーズケーキが好きでしょうがない。

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