2006年10月27日金曜日

8 あかずの間

 目醒めたての原子がいくらかの電子を引き連れて走っている。宇宙船にも似た分子構造の中をすいすい抜けて「おれはかつて真っ白な花びらだった」ぽつりと呟く。「おれはたくさんの仲間とともにあって、ともに眠ってしたのだ」崩れかかった分子構造の端で物思いに耽る。「だが今、花は枯れ土に還ろうとしている」「おれは花びらである以前、肥料だったのだ」「そして肥料である以前は……」原子は夢想する。やがて、自身の記憶の中を彷徨い原子自身に想起を繰り返させている主体に語りかけた。
「ところでおまえ誰だ」
「おれはおまえだ」
「おまえはおれなのか」
「ああそうだ」
 原子と一頻り話した後、主体は再び記憶を順々にひっくり返し始めた。しかしその中で一つ、全く触れられることのない箇所があることをそれは知らない。存在すら気付かぬまま。新たな記憶が創造され、そこは最深部に隠される。常に、常に。
 かつて花びらだった原子は草として転生し、牛に食まれ、牛の血肉として転生し、人に食われ、まんまと精子に成りすます。そして子宮で卵子と融合するが、原子には自身が目醒めているかどうかさえ定かではなく、ただ一瞬だけ、喪失した記憶の一片に指が掠るが、その頃には夢の自覚を持っていて意識を失っていた自分に気付くのだ。
 お久しぶり、あなたは私たちがかつて花びらだった頃、一万六千七百二十八個の原子を挟んだ向こう側に居たのよ、憶えていらっしゃるかしら。あれ、ああ、もう眠ってしまわれたのね。
 夢現に聴く。



 次は『マッチ箱の店』。楽しそうですな。わっくわっく。

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