2006年12月28日木曜日

 ようやく立ち上がることのできた子供は、何度も転びながら道を行く。幅の広くて果てのないそれは道と称ぶには不確かであるが、子供にとっては紛れもなく栄光と幸せに続く道であり、また、それはたしかに続いているのだ。
 子供は年月を経て成長する。まず最初に知ったのは道徳だった。道徳を得て未熟だった眼はより輪郭の確かな道を映し、道は思っていたよりも狭かったことを知る。次に畏れを知り、悪徳を知る。
 知は世界の真実を次々に暴露する。ときに暴力的に、ときに囁くように。かつて道の果てに夢見たものの何と稚拙なことか。
 こんなことを知りたかったんじゃない! 盲目的な唯物科学主義の使徒が、高らかに、高圧的に、少年の限界性を宣告する。きみはなあんにもできない。不可能性の具現だ。きみはなんとちっぽけなことか。無力なことか。屈服したまえよ。さあ、さあ! 使徒は首に腕を巻き付ける耳元で囁く舌をうごめかせる体に手を這わせ侵入し少年をぐちゃぐちゃにしてしまう。内蔵がとろける音は聴こえるか。骨は折れたか。使徒はそれでも少年を犯す。少年は口もきけない。精根尽き果てた体をたたせてしかしそれでも精を絞り尽して尽してなお犯し続ける。


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