2007年6月12日火曜日

思い出せない約束

「思い出せない約束」

 廃駅のホームのベンチで老人が杖をついて座っている。人を待っているのだ。駅前の商店街は元々あって無いようなものだったが、それすらもとうの昔にうち捨てられていて、今では青青とした草草に覆われた草原となっていた。建物は全て破壊されていたがホームのコンクリートだけは取り残され、結果ホームのベンチからは見渡す限りの緑と、それ以外を占める空の青だけが見えるのだった。老人はベンチに杖をついて座っている。
 風が一度吹くと、それは草の頭を撫で軌跡を明確にする。春の日差が照り返し、光の波が走り抜け、そのまま山を越えて海に至り、折り返して海風が山で潮気を抜いて返ってくるのだ。
 雨が降れば一面灰色の景色となる。強さの度合いにもよるが、殆ど晴れに近しいときなら眩い雫がいくつもいくつも無数に降り注ぎ草葉を湿らせた。青臭い、湿った匂いも急激な気化によって鳥が飛ぶような高さまで上り拡散するのだった。
 そして、夜になると一台の列車がヘッドライトで夜闇を掻き分けホームに滑り込む。煌々と黄色い灯りを零す窓辺には何人もの人が見えていて、列車はブレーキに身を軋ませ、ぶるん、と震えるとどくどくと乗客を吐く。めいめいが身体に煙草の匂いを染みこませており皆無言でホームを下りてゆくのだが、その中には婦人や学生、乳呑児まで含まれていて紺色のスーツの中では目立って見えるのだった。すっかり身軽になった列車が再び身を軋ませ発車すると、後には何も残らない。山から吹き降ろす風はかろうじて残る人の気配を無遠慮に吹き飛ばしてしまうのだ。老人はベンチに杖をついてながい夢を見ている。
 ホームの隅に溜まった水がコンクリートを浸食し、草がひびを作り広げる。いつかホームは崩れそこはまっさらな草原に変わるだろう。杖と華奢なペンダントが十歩と離れていない距離で落ちていることを知るものは未来永劫現れない。


0 件のコメント:

コメントを投稿