2008年8月22日金曜日

猫の卵

「猫の卵」

 娘が持って帰ってきた卵は握り拳大の大きさだった。娘はにこにこしながら言う。「幸子ちゃんがくれたの。一ヶ月くらいで生まれるんだって」何が、と訊ねる。猫。娘はにこにこしている。
 私は娘に対して思いつく限りの説得を試みる。猫は胎生であるから卵からは生まれないこと、例えばペンギンの夫婦が昼夜通して温めてやっと卵が孵化するように卵の世話は非常に大変であること。しかし結局娘の意思を挫くことはできなかった。夫もやらせてみればいいじゃないか、命の重さを云々と呑気なことを言う。かくしてリビングの片隅に、底にタオルを敷いたダンボールがちょこんと鎮座するようになった。どうせそのうち飽きるだろうし、何よりも孵るはずがない。私はそう鼻を鳴らすと大きなお腹を抱えて掃除機を転がす。
 娘の卵の飼育は寝起きと同時に始まる。布団から卵のもとまで一直線に駆けつけ、被せていたタオルをどけると卵の殻を一所懸命にこする。早く生まれてね、など声を掛ける。ようやく学校に行かせても、午後にはまっすぐ家に帰ってきて卵の前にへばりつき、そのまま寝るまで動かない。初めの頃は友達を呼んで卵を自慢していたが、二回か三回ほどでぷっつりと友達が来なくなってしまった。それに比して娘は卵の飼育にのめりこむようになる。
「ねえ本当に生まれるの?」
「生まれるもん」
 私が卵に触ろうとすると娘は文字通り牙を剥いて怒り狂った。
 やがて一ヶ月が経つ。猫の卵は孵らない。ほらやっぱり駄目だったんだよ、と私が言うと娘は涙目でこちらを睨み、せっせと卵を擦る。その背中を見ながらため息をつき、幸子ちゃんも余計なことをしてくれたもんだ、と思う。私のお腹も随分大きくなって出産も近いというのに、何だってこんな面倒臭い話を抱えなければならないのだ。
 それから更に半月が経ち、娘の飼育の熱中っぷりは常軌を逸脱し始める。目の下に隈を作りおぼつかない足取りで学校に行き、卵を擦っているときもうつらうつらと舟を漕ぐのにうっすら開いた瞳には鬼気迫るものがある。何が娘にそこまでさせるのか。私は怖ろしくなる。夫にも相談したがその呑気さにかえって苛立ちが増してしまう。娘にも遠回しにもう諦めるよう言ったが、聞く耳を持たない。もう出産も近いのに何だってこんな面倒な話を――。
 きっかけは思い返せばおそらく些細なことだったのだろう。私は娘と大喧嘩をして、勢いに任せて娘から忌まわしい卵を取り上げた。娘の泣き叫ぶ声も遠く、裸足のまま庭に出ると硬そうな箇所を選んでそこに卵を叩きつける。思いっきりやってやった。腐った黄身がどろりと広がって異臭を放つがそれすらも心地よい。それに娘のあの顔と言ったら!
「猫は卵から生まれなんかしないし、この卵だってとっくの昔に死んでたの!」

 一週間後、私は出産をする。安産だった。あらゆる頭痛の種から解放され、新しい家族も無事迎えることができ、涙と鼻水でべとべとの夫を慰め私はとても満ち足りた心地でいた。娘もあの日以来憑き物が落ちたように以前の明るさを取り戻し、今は夫と一緒に生まれたばかりの息子をじっと見ていた。ねえ、触ってもいい? 優しくやるんだよ。うん……。
「ちょっと飲み物買ってくるよ」
 夫が軽やかな足取りで部屋を出て行く。開いたドアの隙間から看護士の人たちがパタパタとスリッパを鳴らして往く音がするがそれもすぐに止む。静寂。私は長い息を吐く。緊張の糸が解れ、うとうととし始める。
 ……やっと会えたねぇ。娘の囁くような声が聞こえる。それに答えるように息子が高い音で鳴く。にゃぁ、と聞こえたのは気のせいだろう。




 ビーケーワン怪談大賞没作。
 理由:字数大量オーバー

 怪談大賞ついでに発掘ー。

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