2008年8月6日水曜日

旅行記

「旅行記」(仮)

 景色に憧れて旅に出た。遠くの景色が好きで、もっと見たくて、旅に出た。道中の寝食のことなんてこれっぽっちも考えてなかった。でも構わなかった。それが五年前のこと。
 初めて日が昇る瞬間を見た。空の一方はまだ夜の気配を残しているのに、もう一方はほとんど醒めかかっている夢のように淡い藤色と朱色が溶け合っていた。映える雲は陰影鮮やかに空に漂っていた。今か、今か、と待つ。しかしその瞬間は七色のテープを切って訪れるものではない。ふと瞬きした瞬間に、微かな息をこぼした瞬間に訪れるものだから。目を細めながら、ひっそりと息を潜めて、私はその瞬間を迎える。それが三年前のこと。
 森を抜けると雪国だという。気配は感じていた。鼻腔を通る空気が凛と張り詰め、じんわりと湿っていた土がいつしか、パリ、サク、と硬さを持つようになっていたから。森の出口はほんのりと明るくて、歩くたびに近付く光と歩くたびに遠のく暗闇と、私は光への渇望に惹き付けられて彷徨していた。そして私は森を出た。雪原。銀色の曇り空と、銀色の雪と、銀色のぼたん雪に迎えられて私は雪国へやってきた。雪はふんわりと舞い、月の光を受けてぼんやりと光っていた。そう、月の光! 夜になっていたことにそのとき気付いた。ならば森の出口で見たあの光は雪原に月光が照ったものだったのかと思い直す。改めて見回してみれば合点のいくこともある。銀色の雪原が銀色たるのは月の光のせいだったのだ。草は頭まで雪に埋まり、全ての動物が春までの長い眠りについている――比喩ではなく真にここは夢の中じゃないか。それは何だか荘厳な心地で私は身動きできずにいた。吐息の白が宙で霧散する。それが一年前のこと。
 花畑の真ん中に取り残された村があり、その村では間もなく祭りがあるという。季節は春で、色とりどりの花々が爆発的に咲いていた。くらくらするような芳香の中を村人は台車一杯に花を盛り、通りを行き交いながら祭りの準備の仕上げに取り掛かっていた。宿の二階からその様子を眺めながら視線を花畑へ向ける。種類毎に植え分けず、ただ咲くがままに任せた花畑は一見すると何色かわからない。モザイクのように雑然とした様の中にも、ぼんやりと眺めていれば教会や女のもの哀しげな横顔が浮かんで見えたりする。ただの錯覚なのだけど。でもその錯覚の中にまだ私の見たことがない世界があるかもしれない。そんな風に思うととても目を逸らせない。それが昨日のこと。
 りんご林を見下ろす丘を歩いている。風がりんご林を撫ぜると甘い香りがふんわりと押し寄せ夕暮れのひつじ雲の方へ流れてゆく。柔らかな綿毛を桃色に染めたひつじの群が行く先は、遥か彼方の海原だ。夕陽を右手に据えながら歩いていると子供に戻った心地がする。あのときの自分は世界のことなんてこれっぽっちも知らなかったけれど、きっと空は今よりも大きく見えただろうし、風の香りももっと瑞々しかったに違いない。世界を知るほどに世界が狭くなる。きゅうっと心が締め付けられる。でもそれが私が選んできた道の行く末だったのだから。それが誇らしくて、少しだけ寂しい。しかし今は「大丈夫だよ」と言って手を取ってくれる人がいる。私はもう一人じゃない。大きくて暖かい手は幼い記憶の父のそれとは違うけれど、私はこの手が大好きだ。それはきっと一年後のこと。
 船に乗った。大きな船だった。七度の昼と、七度の夜を越えて船は大海原を行く。退屈な日々を人々は語らい過ごす。それが三年後のこと。
 世界の果てにやってきた。そこには世界の全てがあった。世界の果ての博物館で、館長の老人があらゆることを教えてくれる。世界の始まりのこと、世界の外のこと、長い長い世界の歴史、矛盾を解きほぐす糸口の話。それが本当のことかなんて誰にもわからない。だけど私たちは老人の語り口にぽうっと聞き惚れ、その乾いた唇から零れる皺枯れた声を魔法のように思うのだ。世界の果ての博物館。そこには全てがある。世界の果ての岬にあり、その先は虚空の闇が広がっている。これ以上先には行けない、と館長の老人は言ったのを思い出す。なぜなら私たちは人間だからだ、と。世界の外に出られないことを口惜しく思うと同時に、行けるところまで行けたことが嬉しかった。何をするでもなく私は岬の先端に腰掛け虚空の闇を見詰めていた――いつまでも。それは五年後のこと。
 ふう、と息をつき筆を置く。気付けば日が傾いている。私は旅行記を閉じると鍵をかけ、本棚の隅に押し込んだ。んっ、と呻いて伸びをすると手すりに手をかけ身を乗り出す。いつもと変わらぬ夕陽が空を茜色に染め上げ、その夕陽を小鳥の群が横切る。辺りを見回してみれば祭りの準備もあらかた出来上がっており、村の門に飾るアーチを男どもがえっちらおっちらと運んでいるところだった。その中に愛しい人がいる。声を掛け手を振ると、たちまち辺りから野次が飛ぶけれどそれすらも楽しい。
 私は結局旅に出なかったけれど、後悔はしていない。いつかの未来に旅行記を見た私は苦笑し懐かしむだろう。そしてきっと、子どもには見せない。






 一つの区切り。

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