2008年10月5日日曜日

無題

「無題」

 先日、近所の紡績工場で火事がありましたの。すっかり夜も更けたころでしてね、カンカンカンって鐘が鳴って「火事だー」って。私も主人も、そりゃあ飛び起きたもんです。
 前々からあすこの工場に良い噂は聞いてなかったのですけどもね……ええ、オーナーさんが筋金入りの拝金主義だとかで、ここいらでは有名でしたのよ。その晩も工場に女工さんを閉じ込めて操業していらすったらしいんですね。二階の窓から電球の灯りが零れて、ぎったんばったんって音がしてね、ところがどこからか火がついてあっと言う間に火事になったそうです。私と主人が着いたときにはもう炎が天に届かんばかりに燃え盛っておりまして、ええ、火の粉が熱に煽られて空じゅうにばららばららってなっていました。みんな、中に女工さんがいるのはわかっちゃいたんですけど、火があまりにも強いのとオーナーさんが入口をがっちり封鎖していたせいで、助けに行かれませんでした。火消しさんもまだ来ませんでしたし。
 そのうち工場から梁が焼け崩れる音がしましてねえ、ええ、それを合図に一人の女工さんが二階の窓から飛び降りたんです。全身火だるまの火の玉みたいでね、地面に落ちてそれっきりでした。身体を打って動けずにいるうちに残り火に喰われたような、そんな感じでした。それからどんどん窓から女工さんが落ちてくるんです。地面に落ちて、それでみんな動かなくなるんです。女工さんたちは次から次へと落ちていって、どんどん積もっていきました。こういうのは不謹慎かもしれませんけどね、私、銀座の三越で見ましたマネキンを思い出しましたの。けど、手足がぴくぴくと動いているのが見えるおかげで、かろうじてあれは人なのだ思い出せるのです。
 結局鎮火したのは夜明け頃でしたかねぇ。オーナーさんが火消しの方たちに何か言っておりまして、彼らは台車に女工さんを乗せていきますの。二人一組でせえのって放るのです。オーナーさんと火消しさんたちが、台車を引いて来た道を戻っていくのが印象的でしたわ。台車にてんこ盛りの女工さんたちが、台車が揺れる度に手足がぷらぷらしてね、立派なマネキンさんになれますようにって主人と二人で手を合わせました。






 日記から発掘。

 工場から飛び降りる女工さんのイメージは、たしか小川洋子「アンネ・フランクの記憶」の中でアンネが読んだ新聞記事に基づくもの(だったと思う)。
 いさや――小川洋子――アンネ――新聞記事(――現場の目撃者)
 これぐらいの隔たりのある情報はもはやフィクションに等しいんじゃないかと思う。

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