「春の雪」
あの子は桃色の墨を枡にたっぷり溜めて筆を沈めた。桃色が滴るのも構わず庭へ飛び出した。暦の上ではもう春だというのに今朝も雪が降り、そこは一面雪景色。あの子は真白な庭に花の絵を描き始めた。桃色は雪を溶かしてぼんやりと霞む。
「ばあ、新しい色!」
あの子がそう言うからあたしは縁側に藤色、若草色、山吹色……とにかくいろんな色を並べてやった。そしてあの子はとっかえひっかえ色を変えて、雪の原に春を描いた。兎のそれみたいな足跡がそこら中にできた。あたしはだんな様と一緒にあの子の作業を眺めていた。お茶でも淹れましょうかね、と言うとだんな様は、いや構わんよ、と仰った。
長い冬に完全に閉じ込められる前に取った手段としちゃ少々荒々しすぎたのやもしない、と誰もが思っていた。あの子も、あたしも、だんな様も。けれどあたしたちはそうしなければならなかった。屋敷の離れはとうに凍てついた。あの子の母親も、あたしの息子も、だんな様の奥方も、みんな閉じ込められた。もっともあたしやだんな様はもう先も短いことだし、いっそ閉じ込められても構わないと思っていたのだけども、あの子までそうさせるのは忍びない。だから春を呼んでみようというあの子を止めやしなかった。
「もうすぐできるから待っててね」
あの子は鼻とほっぺたを真っ赤にしてにっと笑った。あたしとだんな様は声を上げて笑った。縁側の遠くがパキパキと青く凍っていく音が聞こえた。間もなく雪が降る。重たい牡丹雪が春をかき消していく。だんな様は石膏みたいに固まった右手をあたしにそっと見せた。あの子は一心不乱に春を描く。春を描く。菜の花、桜、寝ぼけ眼の蛙に桃色の風。
「ほら!」
はっと気付いたあたしにあの子が見せたのは屹立するふきのとう。あの子の周りにだけあたたかい陽が差し込んでいる。
よかったねえ。
あたしはにっこりと微笑んだ。ほらだんなさまあのこはやってくれましたよとつぶやけたかはさだかではなく。
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