2010年1月3日日曜日

沈殿都市

「沈殿都市」

湖がある。
「あすこに都市が沈んでいます」
ぴっと示された指の先には湖。
「私が入国管理官です。入国をご希望ですか」
――違います。
「通りかかっただけですか」
――はい。ところで入国を希望する人はいるのですか。
「少なくともこの十年はいません」
――都市は湖の底に沈んでしまっているから。
「しかしそれと入国希望者が今後一切現れなくなることは別の話です」
――まっとうな人間なら息のできないおそらく無人の都市に足を踏み入れる理由はないでしょうし、そもそもあなたが仕える国そのものもが既に消滅してしまっているように思うのですが。
「私の給金は毎月自動的に私の銀行口座に振り込まれており、解雇通知も受けていない以上、ここで一日中私自身の役目を果たすことこそが私の本分なのです。それに、私がここを離れてしまえば、入国希望者を応対する者がいなくなってしまいます。たとえ今まで十年間入国希望者がいなかったからといって、どうして十年と一日目に入国希望者が訪れないと言い切れるのでしょう。……現実的に整合性があるかどうかという話ではないのです。その振り子が止まってしまっても時計の歯車はじっとそこにとどまり、いつか振り子が再び揺れだせばその歯車はまた働き始めます。そのいつかが永遠に訪れないとしても、歯車はそこに居ることが本分なのであり、足を生やしてその場を離れてしまったらもはや歯車としての本分を果たせなくなるでしょう。それだけのことなのです」
――そうですか。
腕を綺麗に四十五度に傾けた敬礼に見送られてその場を後にする。



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たとえば夏の蒸し暑い日には、蜃気楼が立ち昇り沈んだ都市が投影されることがあるという。私が感嘆をこぼすとその入国管理官は、「それが夕刻に出た日など、都市の方から飲みに誘われることがあるので、ふらふらついて行ってしまうことがあります」
と言った。

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